を停めてもらって、彼は旗田邸へ引返したのであった。もちろん検事には、このことを予《あらかじ》め打合わせずみであった。トリックというのは、もちろん旗田亀之介を鶴彌の広間へひき出して、あの灰皿の上の黒ずんだ灰を盗ませるためだった。そしてそれを確認するために、警官の一人を洗面所のカーテンの蔭にかくしておいたことは、既に陳べたとおりである。
 一方検事たちの一行は、お末のアパートの捜査をすませたのち、ミヤコ缶詰工場へとびこんだ。まず問題は、お末すなわち本郷末子の行状を調べることと、例の空き缶についていた未詳の指紋の主を探しあてることだ。お末の評判は悪くなかった。すこしヒス気味ではあるが、仲々よく働く女で、この工場でも相当目をかけていることが分った。況んやこの婦人に、浮いた噂のあろうはずがなく、またそうかといってひねくれて人殺しをするような気配もなかったことを証言する人々があった。
 要するにお末は、出来るだけ働いて、貯金を殖やすことが楽しみであったのだ。そういう女が殺人罪を犯すようなことは殆んど考えられなかった。しかしなぜ彼女の指紋が、問題の空き缶についていたのであろうか。この点については俄に解決がつかなかった。
 そこで次に、未詳の指紋の主の調べに入ったのであるが、これは案外楽に見つかった。井東参吉というのが、その指紋の主であったのだ。彼井東は、この工場の工員の一人であって、試験部附の缶詰係だった。つまりこの工場で、まだ売出し前の食料品を試験的に缶詰にする工程において、彼はそれの最後の仕事として、蓋をつけて周囲を熔接して缶詰に出来上らせる部署で働いていた。彼のところには、自動式ではなく手動式の缶詰器械があった。これは旧式のものだが、数の少い試験用缶詰をパックするには便利なものであった。
 井東は三十歳ばかりの、この工場では古顔の工員であった。彼には一つの気の毒な病気があった。麻薬中毒者なのであった。彼は取締のきびしい中をくぐって、麻薬を手に入れなければならない悩みを持っていた。そんなことから、彼は普通の製造工程のところから遠ざけられて、試験部で働いていたわけである。
 井東を調べたところが、はじめは仲々いわなかった。しかし取調べの途中で、彼が麻薬中毒者であることも分り、それから糸がほぐれていって、遂に彼が白状したところによると、問題の軽い缶詰は、旗田亀之介に頼まれて、彼井東が缶詰仕上げをやったに相違ないことが明白となった。もちろん彼は、缶詰の中にそんな恐ろしいものが入っているとは知らなかったという。ただ亀之介からいわれた通りに蓋をつけて熔接したのだという。彼は亀之介からしばしば麻薬を受取っているので、頼まれたことはしないわけにはいかなかったのだという。
 その缶詰をこしらえあげたところへ、偶然本郷末子が入って来て、その缶詰を手に取上げようとしたので、井東はあわてて彼女の手を抑えたという。だからお末の指紋は、このときについたと分った。
 亀之介は、お末がここに勤めていることを知っていたので、常に警戒して、お末と顔を合わさないようにしていた。問題の缶詰を封入した日も、彼はお末が入って来たと知ると、急いで部屋から逃げだした。お末の方は亀之介がこんなところに来ているなどとは夢にも思わないから、亀之介が反対の扉から出て行く姿をちらと見ても、それが亀之介だとは悟らなかったのだ。それにお末は、前にもいったように、ひどい近眼だった。亀之介は、こうして鶴彌の告白書の入った缶詰を用意し終ると、それを共謀者の手を通じて兄鶴彌に送ったのである。
 それより前亀之介は変名して、たびたび兄を脅迫し、その告白書を五十万円で買取らないかと持ちかけたのであった。これには彼亀之介の共謀者が、しばしば鶴彌に会ったが、亀之介は最後まで自分を隠しおおせたつもりであった。ところが鶴彌の方は、途中から気がついた。殊にその告白書を握っている人物が戦災で死に、もう大丈夫と思っていたところが、それが出て来たところから、これはてっきり土井の遺族が一緒に策動しているものと睨み、そこで彼は土居三津子を呼びこんで、いろいろな方面から脅迫を試みていたところだった。三津子は、その告白書を見たことがあり、そしてそれは亀之介が立合っていたことを鶴彌に洩したものだから、鶴彌はこれに弟が関係していることを感付いたらしい。
 しかし鶴彌にとっては、あの告白書が非常に重大であるので、何を措いても先ずあれを取返そうとしてかかった。彼は五十万円を共謀者に渡した。それに替って、あの恐ろしき「地獄の使者」であるところの缶詰が、彼に手渡されたのである。彼は大安堵をして、告白書を焼却したその直後に殺されてしまったのだ。
 彼の考えでは、その告白書の処置をつけた上で、全面的に弟亀之介を痛めつけるつもりでいたのだ。亀之介の
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