ったサイフォン一壜。――これが卓子の上のすべての品物だった。
 灰皿の中には、吸殻の外に、紙片を焼捨てたらしい黒い灰があって、吸殻を蔽っていた。
 検事の目は、これらの物の上をいくたびもぐるぐる廻っていたが、そのうちに大きく視線を廻して戸口の方を見た。
 裁判医の古堀博士が入って来たのである。

   どぶ鼠

「わしを呼ぶんなら、もっと早く連絡してもらいたいもんだね。今日は野球が見に行けるものとその気になって喜んでいるところへ――玄関まで出たところへ君たちの勝手な電話さ。一体殺人事件は夜中に起るもんだから、その翌朝の一番電話で、わしのところへ連絡してもらいたいね。そうしないと、さっぱりその日の予定がたたないやね。予定がたたないばかりか、今日みたいに甚だ不機嫌にならざるを得ないじゃないか。よう、これは長谷戸さん。今のわしの長談義を、君もちゃんと覚えていて下さいよ。……それで、御本尊はどこに鎮座ましますのかな。ああ、あれか。わしより若いくせに、早やこの世におさらばの淡泊なのが羨しいね」
 古堀老博士は、例のとおりに喋り散らしながら、携げて来た大きな鞄を、被害者が占領している安楽椅子の右側に一度そっと置いて、それから錠前をはずして大きく左右へ開いた。鑑識用の七つ道具がずらりと店をひろげた恰好だった。
 検事一行や大寺警部たちが、老博士の機嫌をこれ以上悪くしない程度の距離をもって、大きく円陣をつくって取巻いた。
 古堀博士は、ゴムの手袋を出してはめ、眼鏡をかけかえると、前屈みになって死人の顔に自分の顔を寄せた。それから手を伸ばして死体の瞼を開き、それからだらりと垂れている左腕を死人の服の上から掴んでみた。それがすむと、いよいよ自分の顔を死人に近づけて、鼻の上に皺をよせた。そのあとで立ち上った。椅子のうしろをぐるっと大まわりをして、死体の向う側、つまり死体の左側へ出た。そこで彼は始めて被害者の頸のうしろに於ける銃創を眺めたのであった。
 古堀裁判医は、小首をかしげた。
 彼は再び椅子のうしろを廻って左の場所に取ってかえし、鞄の中から二三の道具を取出すと、それを持って死体のうしろへ廻り、器具を使って傷口の観察にかかった。それは、この部屋へ入って来たときの彼の忙しそうな口調に似ず、実にゆっくりした念入りなものであった。最後にこの裁判医は、こっくりと肯いてから身体をまっすぐにし、腰を叩いた。
「もういいですか、古堀さん」
 と長谷戸検事が声をかけた。検事は煙草ものまないで待っていた。
「とんでもない。急いで物をいう裁判医をお望みなら、これからはわしを呼ばないことだね」と古堀はいって仕事をつづけた。しかしその言葉が持つ意味ほど彼は不機嫌ではなかった。
「この死体を床の上へ移して裸にしてみたいんだが、差支えはないかね。ほう、差支えがなければ、君がた四五人、ちょっとここへ……」
 古堀医師は、巡査や刑事の手で死体を安楽椅子から絨毯の上に移させた。それから彼の手で、死体の服を剥いた。そして全身に亙って精密なる観察を遂げた。
 彼が腰を伸ばして、検事の方へ手を振ったので、彼の検屍が一先ず終ったことが分った。
「検事さん。この先生の死んだのは大体昨夜の十一時から十二時の間だね。死因は目下不明だ。終り」
 たったそれだけのことをいい終ると、古堀医師は、部屋の一隅のカーテンの蔭にある大理石の洗面器の方へ歩きだした。
「ちょっと古堀さん」
 と検事はあわてて裁判医を呼び停めた。
「死因は後頭部に於ける銃創じゃないんですか」
 誰も皆、検事と同じ質問を浴びせかけたいところであろう。すると裁判医は、歩きながら首をかるく左右に振った。
「お気の毒さま。死因ハ目下不明ナリ。頸部からの出血の量が少いのが気に入らない……。死体はわしの仕事場へ送っておいて貰いましょう。解剖は午後四時から始まり、五時には終る」
 老人は、ぶっきら棒にいった。死因は目下不明なり、頸部からの出血の量が少いのが気に入らない――との言葉は、俄然一同に大きな衝動を与えたらしく、そこかしこで私語が起った。多くはこんな明白な盲管銃創を認めるのを躊躇する古堀老人の頑迷を非難する声であった。
 そんなことは意に介しないらしく、古堀裁判医は洗面器の方に歩みよった。
「やあ、これはすまん」
 老人がいった。一人の長身の男が、古堀医師のために、洗面器のあるところの入口に下っている半開きのカーテンを押し開いて、老人が通りやすいようにしてやったからであった。その男は余人ならず、帆村荘六であった。
 この帆村荘六は、さっき古堀医師が首を左右に振ったときに、それと共振するように首を左右に振った唯一の在室者だった。
 古堀は、洗面器の握り栓をひねって、景気よく水を出した。そしてゴム手袋をぬいで、持参の小壜から石鹸水らしいも
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