仕事にかかったばかりのところで、そう簡単に呼び戻すわけがない。
だが、元帥の胸のうちは、ここでいくら私が考えてみても、分らない。
「東京港へはいります。港内司令所より、第四十三番|潜水洞《せんすいどう》へはいれとの命令がありましたから、只今からそちらへはいります」
オルガ姫が、なんでもやってくれるのだ。私は、早くこの魚雷型潜水艇から出て、美味なあたらしい空気を、ふんだんに肺の奥まで吸いこみたいと思った。
艇のエンジンは、とつぜん停った。
ぎいイ、ぎいイ、ぎいイ――と、金属の擦れ合う高い音がきこえる。わが艇は、ついに潜水洞の中につき、今台のうえにのって、ケーブルで曳きあげられているのだ。間もなく、艇は地下プラットホームへつくことであろう。
空気窓が、ぱかッと音がして開いた。とたんに、待望久しかった新鮮の空気が、どっとはいって来て、下顎《したあご》から顔面をなでて、流れだした。
「開扉《かいひ》します」
オルガ姫が叫んだ。
外被《がいひ》が開いた。私の目に、プラットホームの灯が、痛いほどしみこんだ。私は、皮帯を外して、外へ出た。そして、しばらくは、柔軟体操をつづけた。身体中の筋肉という筋肉が、鬱血《うっけつ》に凝《こ》っていて、ぎちぎちと鳴るように感じた。
オルガ姫は、まめまめしく立ち働いている。私の乗ってきた魚雷型潜水艇は、彼女の手によって、艇庫におさめられた。
この地下プラットホームは、東京港に特に設けられた船舶用の発着所であった。船舶といえば、むかしは、桟橋《さんばし》についたり、沖合に錨をおろしたものであるが、目下わが国では、それを禁じてある。碇泊は、すべて禁止である。
船舶はすくなくとも、東京港付近まで来ると、いずれも潜水してしまう。そして、潜水洞へ潜りこむように決められてあった。だから、わが国の艦船には、潜水の出来ないものは、一つもなかった。小さい船でも、わが潜水艇のように、潜水設備のあるものが相当多かった。つまり、潜水のできない艦船は、不全だというわけである。
わが艦船が、こういう潜水式に改められるまでには、十年の歳月と、多大な費用とを要したが、それが完成すると、わが海運力は、世界一|堅牢《けんろう》なものとなった。
近頃、外国でも、そろそろ見習いはじめたようであるが、わが国は、むかしから海国日本の名に恥じず、この進歩的な潜水艦船陣を張り、堂々と世界の海をおさえているのは、まことに愉快なことである。
「おお、黒馬博士、お出迎えにまいりました」
一人の美しい婦人が、私の前に立って、いんぎんに挨拶した。
「やあ、ご苦労です」
「鬼塚元帥が、たいへんお待ちです。どうぞ、お早くこの自動車《くるま》へ……。申しおくれましたが、妾《わたし》は、鬼塚元帥の秘書のマリ子でございます」
「やあ、どうも」
鬼塚元帥も、このように目のさめるような美しい人造人間を使っていられる――と、私は妙なことを感心した。
毒|瓦斯《ガス》――スパイの活躍
私たち三名は、すばらしい流線型の自動車に、乗り込んだ。
これは完全流線型というやつで、二枚貝の貝殻一つを、うんと縦に引伸し、そして道路の上に伏せた――といったような恰好であった。むかしの人が見たら、まさか、これが自動車だとは、気がつかないであろう。
「元帥閣下は、そんなにお待ちかねの様子でしたか」
「はい、それはもう、たいへんお待ちかねで、潜水洞四十三番へ、たびたび電話をおかけになるというようなわけで……」
「元帥閣下は、なにか、怒っていられる様子は、なかったですか」
「いいえ、たいへん上機嫌でいらっしゃいました。どうやら、あなたさまは、御栄転になるとの噂が専らでございますわ。黒馬博士、このたび、あなたさまは、どっちの方面から、お帰りになったのでございますの」
「今度はね、私は……」
と、いいかけて、私はとつぜん、ごほんごほんと咳《せき》こんだ。こいつは油断がならない。マリ子という女は、へんなことを尋ねる。ことによると、第五列かもしれない。
「ああ、苦しい。海上があまり涼しかったもので、すっかり咽喉をこわしてしまいましてねえ。おい、オルガ姫|咳止《せきど》めの丸薬をくれないか、三粒あればいいよ」
オルガ姫は、私の前にいたが、鞄の中から、丸薬《がんやく》入りの缶を出して、私の掌《てのひら》に、三つの黒い丸薬をのせた。
「水、水を早くくれ」
オルガ姫は、水筒の水を、大きなコップに三分の一ほどついだ。
私は丸薬を掌にのせたまま、まず、水をぐっと呑みほした。
「あら、水の方を、先にお呑みになって……」
と、マリ子は、怪訝《けげん》な顔。
私は、彼女の見ている前で、更に怪訝なことをやってみせた。それは、そのコップを下におかないで、いきなりコップの口で、私の鼻と口とを覆ったのである。
コップの口は、ぐちゃりとなって、私の鼻と口とのまわりに密着した。――このコップは、口のまわりだけが粘質硝子《ねんしつガラス》で、できているので、こうすると、うまく顔に密着するのだ。
「あなた、しっかりしてください。気が変になったのでは……」
と、マリ子が、さわぎたてるのを尻眼にかけて、私は掌にのせていた三つの黒い丸薬を、ぱっと足もとに投げつけた。
「呀《あ》っ!」
とたんに、丸薬はとび散り、それに代って、うす紫の瓦斯が、もうもうと立ちのぼりはじめた。
「ああッ、毒|瓦斯《ガス》!」
マリ子は、あわてて、座席から腰をあげ、自動車のハンドルに手をかけた。
だが、毒瓦斯の効目《ききめ》の方が、もう一歩お先であった。マリ子は、ハンドルを握ったまま、顔色を紙のように白くして、どうと、前にのめったのである。おそるべき第五列の女スパイの死だ。
「おお、あぶない」
私は、そのとき、快速力で走っていた自動車が、エンジンを停め、ゆうゆうと頭をふって、地下道の壁に突進していくのを認めた。運転手も、マリ子と名のる女スパイとともに、毒瓦斯にやられてしまい、レバーやハンドルから、手を放してしまったのである。
私は、ぐにゃりと伸びた運転手の肩ごしに、手をのばして、ハンドルをぐっとつかんだ。
片手でハンドルを握ったのだ。
無理である。たいへん無理である。しかし私は、死にものぐるいで、ハンドルを左に切った。地下道の厚い壁はわが自動車めがけて、鋼鉄艦のごとく驀進《ばくしん》してきたが、私が、力一ぱいハンドルを切ったため、壁は、ぐーッと右に流れた。
「おお、これで衝突をのがれたか……」
と思ったが、とたんに車体は、左に傾くと思う間もなく、呀っという間に、顛覆《てんぷく》してしまった。
そのとき、自動車の硝子戸が、うまく壊れてくれなかったら、私はコップを鼻や口から外し、わが撒いた毒瓦斯により、自ら生命を縮めたかもしれない。コップを放すのが、窓硝子のこわれたよりも遅かったため、私の一命は、幸いに助かった。
それでも、しばらくは胸が灼《や》けつくようで、とても気持がわるかった。私は、オルガ姫をよんで、外に助けだされた。
「ふん、おどろかせおった。このマリ子という奴は、どこの国のスパイだろうか」
私は、マリ子の服を改めたが、彼女は悪心ぶかく、証拠になるような何物も持っていなかった。
私が、呆然《ぼうぜん》として、顛覆した自動車に、腰をかけていると、後方から、数台の快速自動車が追いかけて来た。
私は、また敵が現われたかと、顔をしかめて痛む腰をあげ、オルガ姫を楯として、身構えた。
(第五列だ)
と思う間もなく、車は停った。
車上からは、十数名の軍人がばらばらと下りてきた。
「おお、黒馬博士。お身体に、お怪我はありませんでしたか。私は鬼塚元帥の副官であります」
そういって、りっぱな将校が、私の前へ、元帥の書面を出した。
“コノ者ニ伴ワレ、スグ来レ。鬼塚”
私は将校を見上げた。
「貴官は、本物でしょうな」
「田島大佐です」
「しかし、第五列が猖獗《しょうけつ》をきわめているようじゃありませんか。現に私は今……」
「申し訳ありません。私たちも、途中で、第五列部隊のため、妨害をうけたのです。もちろんそれは、プラットホーム付近で、博士を誘拐《ゆうかい》する目的だったのでしょう。とにかく、近頃めずらしい事件です」
「事件のあとで、めずらしい事件だと感心していては困るですね」
「全く、御説のとおり。警備部隊の引責はのがれませんが、またその一方において、敵がいかにわが黒馬博士を高く評価しているかという証拠になります。博士、今後も、どうぞ御注意のほどを……」
「わかりました」
私は、田島副官の率直なことばに、好感をもって、それまでの不機嫌を直して、
「私が、早くに、この女は第五列だなと、気がついたから、よかったようなものの、気がつくのが遅ければ、どこへ連れていかれたか分らんですぞ」
「大きに、御説のとおりです。して、その第五列というのは、どこにいますか」
「顛覆している自動車の中を見てください。そこに、運転手もろとも、長くなって伸びているでしょう」
私が、そういうと、田島大佐は、部下を随《したが》えて、壊れた自動車の中をのぞきこんだ。
「おやッ、マリ子じゃないか」
大佐は、びっくりしたような声を出した。
「御存知でしたか、その女を……。さだめし、黒表《ブラックリスト》にのっている豪の者なんでしょうね」
と、私がいえば、大佐は硬い声で、
「いえ、博士。この女は、元帥の秘書のマリ子でありますぞ」
「なに、元帥の秘書のマリ子?」
私は困惑した。
「そうですか、それにちがいありませんか」
「たしかに、マリ子です。マリ子の顔を見まちがえるようなことはない」
やっぱり元帥の秘書だったのか。私は、とんだ失策をやってしまったと思った。仕方がないから、私は、マリ子がたしかに第五列の一員と思われたから、毒瓦斯で殺してしまったのだと、率直に一切を白状して、何分の処分を、大佐に委せるといった。
「あははは。これはおかしい」
と、田島大佐が、私の話をきいているうちに、腹をかかえて、笑いだした。私は、むっとした。
「なにが、おかしいのですか。私が失策したことが、そんなにおかしいのですか」
私は、大佐のへんじ如何によっては、いってやりたいことばがあった。
「いや、博士。これは、とんだ失礼を。笑ったのは、博士が思いちがいをしていられるからです。元帥の秘書のマリ子なら、毒瓦斯などで死ぬような者ではありません。なぜといって、マリ子は人造人間なんですからね」
「ああ、やっぱり人造人間ですか」
では、私におけるオルガ姫のようなものだ。
「そうです、人造人間です。ですから、毒瓦斯を吸って死んだマリ子は、にせ者のマリ子にちがいありません。そして、そいつは、生身《なまみ》の人間でしょう。いま、よく調べてみます」
大佐は、そういって、自動車の中から、マリ子をひっぱりだした。彼は、マリ子の頸のあたりをしきりに調べていたが、やがて、
「おお、やっぱりそうだ」
といって、指先で、マリ子の皮膚をいじっているうちに、ベリベリと音をさせて、マリ子の頸《くび》のところから顔面へかけて皮膚を、はいでしまった。その下からは、マリ子とは、似てもつかない鼻の高い、白人女の顔が出て来た。
「マスクだ。巧妙なマスクを被っていたのだ。元帥秘書のマリ子と、そっくりの完全マスクを被っていたのだ」
私は、万事を悟って、苦笑した。なんだ、つまらない奇計《トリック》である。
大佐は、白人女の死顔を、じっと眺めていたが、
「はて、この顔は、見覚えがある。これはたしか、アストン女史というポーランド女だ。アストン女史が、東京へはいりこんで活躍するとは、はて、訳がわからないぞ」
大佐の疑問は、尤《もっと》もであった。私には、見当がつかない。ポーランド女が、なぜ東京へはいりこんで、私にクロクロ島のことを聞きだそうとしたのであろう。
それから二十分ほど後、私たちは、鬼塚元帥と、大きな卓子《テーブル》を囲んで、向いあっていた。
まず話題は、ここへ来る途次
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