きゆう》であったろうか。

  現場近接

 海底へ下りたワーナー博士一行十名は人員点検をして異状のないことを確かめた上で、一団となって進発した。
 五個の強力な灯火が前方を明るく照らしている。ここはいわゆる海嶺《かいれい》というところらしく、ゆるやかな起伏のある丘をなしていて、歩くたびに海底の軟泥《なんでい》は煙のようにまいあがる。
 博士の助手の一人は、超音波の装置を胸にかけて、前方を、この聴こえない音波で摸索している。
 二人の護衛は、最前列に出て左右を確かめつつしずかにあるいている。
 ホーテンス記者と水戸記者はワーナー博士のすぐ後ろにぴったり寄り添うようにして歩いている。博士の右隣には、博士の信任の篤いオーキー学士が、水中電話機を背負って、たえず水面に待機している掃海艇サンキス号と電話で連絡をとっている。そのオーキー学士の声が海水を伝わって水戸記者の耳にもよく入る。
「……一行異常なし。針路を南西にとっている。軟泥と海藻の棒だ。前方に何があるか、見当がつかない……」
 オーキー学士はしきりに喋っている。
 ワーナー博士の方は、点々として、ゆるやかな歩調で歩いていく、一群幾千とも知れぬ扁平な魚の群が、無遠慮に前方を横ぎり、そしていずれへともなく姿を消す。
 昆布の林を一つ、ようようにして通抜け、ひろびろとした台地のようなところへ出た。ワーナー博士は、さっと手をあげ、合図の笛を吹いて一同に「停れ」の号令をかけた。
 そこで底へ下りて最初の測定が始まった、器械や装置が並べられる、特別の照明が行われる、ワーナー博士がプリズム式の屈折鏡で計器の針の動きを覗《のぞ》き込む。
 ホーテンス記者と水戸記者は、その計器を覗き込もうとしたが窮屈な潜水服をつけているので、それは見えなかった。
「ワーナー博士、海底地震はやっぱり起こっていますか」
 とホーテンスが尋ねた[#「尋ねた」は底本では「訪ねた」、58−下段−11]。
「さっき一回感じたが、計器をここへ据付けてからはまだ一度も起こらないね」
 そういっているとき、博士は急に身体を強《こわ》ばらせた。そして手をあげて助手を呼び寄せた。五分ばかり経った後、博士は元のゆるやかな姿勢に戻った。
「どうしました、ワーナー博士」
 ホーテンスが声をかけた。
「おお、今しがた待望の海底地震があったよ、その波形を初めて正確に見ることが出来た」博士はここでちょっとの間言葉を停め「とにかくわれわれがこれまで海底地震と呼んで来たものは本当は地震ではなかったのだと思う、そういう結論に達した」
 博士は重大なる言明をした。
「あれは海底地震ではないというのですか、すると何ですか、あの異常震の正体は……」
「ホーテンス君。その正体をこれから調べにかかるのだよ……全員集合」
 と博士は一同を呼び集めた。
「ここで隊を二つに分ける。三名は、装置と共にここに残留し、残りの七名はこれから前進して振動源に近接する。いよいよ注意を要する作業の始まりだ」
 博士はその人選をした。それから博士は、今しがた判明した震動源の方向を説明し、七名の者は左右二団に分れてその方向へ進発することとなった。
 ホーテンスと水戸記者は、右隊と左隊とに分れた。ホーテンスは、ワーナー博士とオーキー学士と一人の護衛の組に入った。水戸記者の方は二人の学士と共に左隊に入った。
 両隊は互いに二十メートルの間隔を保ちながら、定められた方向に前進していった。
 水戸記者もようやく潜水服に慣れ、前屈みになって歩くのが楽であることも知った。ゆるやかな海底の起伏を上がったり下がったりして行くうちに、三十分ほど時間が経ち、そこで小休止となった。水戸は、潜水服の中に温めてあった牛乳と甘いコーヒーを、ゴム管で吸った。
 それからまた前進が始まった、すると間もなくかなり高い丘陵の下に出た。その丘陵をのぼり切ったとき、突然右隊から「警戒! 停れ」との信号があった。
 何事かと、左隊の三名が潜水兜をくっつけ合って意見交換を始めたとき、右隊から誰かが近寄ってきた。
「おお、ホーテンス」
 水戸は彼を認めて、名を呼んだ。そのホーテンスは途中急いだと見え、聞きながら水中電話機から声を出した。
「大警戒を要するのだ。前方百メートルのところに、海底からとび出したものがある」
「海底からとび出したもの?」
「そうだ。その正体はまだ分からぬ。沈没している船かもしれない。或いは岩かもしれない。とにかくこれから油断をしないで前進するように、との博士の注意だ」

  海底にわだかまるもの

 ホーテンスが右隊のほうへ帰ってしまうと、左隊の三名は、前よりも一層互いに身体を寄り合って、そろそろと軟泥の上を前進していった。
(沈没船か、岩か?)
 岩なら別に問題はない筈。博士が警告したわけは、それが沈没船の如き異様な物体だと判定したからであろう。
 すると沈没船が、あの異常振動を出すのであろうか。
 とにかく振動源の方向に、その沈没船らしいものが横たわっているので、博士は警戒を命じたものに相違ない。すると、そこまで行きつけば、その正体も、振動源の謎も解けるかもしれないのだ、いや、ひょっとしたら怪奇を極めたゼムリヤ号座礁事件の真相さえが、快刀乱麻《かいとうらんま》を断《た》つの態で解け去るかもしれないのだ。水戸記者は、轟く胸を抑えつつ軟泥を蹴って前進した。
 一行が、それから百歩ばかり前進したとき、突然ものすごい地震が起こり、軟泥は舞上ってロンドンの霧のようにあたりに立罩《たちこ》め、各自の携帯燈は、視界を殆ど数|糎《センチ》にまで短縮し、一同は壁の中に閉じ込められたようになった。と同時に連発するものすごい地震は、非常な不安を起させ、誰もそのまま立っていることが出来ず、海底にドラム缶を転《ころ》がしたように横になった。
 水戸記者は誰よりも早く転がった方であるが、それは彼が誰よりも早く恐怖に陥ったというわけではなく、かねてこういう場合に迅速に姿勢を低くすべきであると考えていたことを実行に移したばかりであった。
 が、潜水服を通じて、彼の五体に伝わって来る強い振動は、決して愉快なものではなく、彼はもうすこしで下痢が起こるような気がしたほどである。
 やがて振動はぴたりと熄《や》んだ。
「ほう、助かった!」
 誰も皆が、そう思ったに違いない。が軟泥は濛々《もうもう》とあたりを閉じ籠め、視界は全く利かず、生きた気持もなかった。
 と、突然水戸は背後にがんがんと連続的な衝撃を受け、身体がくるくると回転を始めた。彼の手が空間で石のようなものに触れたが、思わず手を握ると、手の中ではたはた動くものがあったので、彼は背後から魚群に突当られたことを諒解した。
 くるくるくると水戸の身体は転がって行く。何処とも行方は知らずに……。
 幸いにも、やがて身体が転がるのは停った。彼は疲れ切ってしばらく寝たまま休んでいた。目は開いてはいられず、動悸がはげしく打って、重病人になったような気がしてならなかった彼はゴム管を咥《くわ》えて、水を吸う元気さえなかった。
 そのような困難のうちに、時間が過ぎた。十分間だか、三十分だか、それとも一時間だかも分らなかった。突然彼は瞼の下に痛いほどな眩しい光を感じて、はっと目をあいた。
「あっ!」
 彼は思わず愕きの叫び声をあげた。信じられない位の意外な光景が、転がっている彼のすぐ上に展開しているのだった。そこには幅の広い大きな飾窓のようなものがあって、内部は舞台のように明るく照明されていた。そして複雑な器械類は、いまだかつて実物はおろか写真によっても見たことのない奇形な形をしているものばかりで、何に使うものやらさっぱり分りかねた。
(一体ここはどこだろうか。あの明るい部屋は何だろうか)
 彼は自分が海底に寝転っていることを再認した。これはあまり時間を費《ついや》さなかった。しかしその明るい部屋が何処であるかについてはすこしも心当たりがなかった。
(待てよ。前方に沈没した船のようなものが海底に横たわっているという話だったが、その沈没船かしら。いや、沈没船がこんな明るい部屋を持っているわけはなかろう)
 彼は自分の頭脳が機能を半分も失っているような気がして残念でならなかったが、ようやく気がついたことは、前方の海底に横たわっているといわれたのは実は沈没船ではなく、なんだか訳は分らぬながら、それは今頭上に見えている明るい部屋を持ったものであること、そして今自分はその窓らしいものの下に横たわっているのだと悟った。
(沈没船でないとすると、一体これは何であろうか。もしや海底の要塞でもありはすまいか)
 そう考えついて、彼が瞳を見張ってその明るい飾窓のような部屋の中へ懸命の視力を集めたとき、彼は再び叫び声をあげなければならなかった。
「おやっ。あれは何者だ。あの異形の者は……」
 どこから現れたか、明るい部屋の器械の間に、人間の頭部の二倍もあるような大きな頭を持ち、そして顔といえば蛸《たこ》に嘴《くちばし》が生えたような怪しい面つきで頭部の下は急に細くなって高麗人参の根をもっと色を赤くし、そしてぐにゃぐにゃしたような肢体を持っている怪物が四つ五つ、身体を重ねるようにして立って、こっちを向いていたのであった。

  深海の争闘

「おお、あれは何者か。妖怪変化か。自分は気が変になったか。それとも悪夢を見ているのだろうか」
 水戸記者は激しい戦慄《せんりつ》に襲われながら、真相を知ろうと努力した。
 だがそれは夢ではなく、また気が変になったせいでもなかったらしかった。現実なんだ。自分はありありと、海底における怪奇極まる光景に接しているのだ。しかしあの上の怪しげなる怪物の姿を永く見つめていると、本当に気が変になりそうである。彼は目を閉じようとしたが、それは出来なかった。大きな恐怖がそれをさせないのであった。
 が、これらのことは、後から考えると、彼の驚愕と戦慄のほんの入り口に過ぎなかったのである。――突然、その飾窓のようなものから、探照燈のような強い光線が水戸の頭上を飛び越してさっと外へ投射された。すると前方が真昼のように明るくなった。濛々《もうもう》たる軟泥はいつの間にか沈殿したものと見え、海水は硝子《ガラス》のように澄みわたっていた。そして嗚呼《ああ》、水戸は懐《なつか》しい者の姿を見たのであった。潜水服に潜水兜をつけたワーナー博士の海底調査隊の数人の姿が、この光芒《こうぼう》の中にありありと捉えられた。彼等は水戸の横たわっているところから約二、三十メートル距《へだた》った地点を、ばらばらになってこっちへ進んでくるところのように見受けた。しかし彼等は、見る見るうちにばたばたと相次いで倒れた。何人かは起きあがろうと努力しながら力がなく、またばたりと倒れて了《しま》った。
 水戸は、彼等が怪物たちが放出する光線か何ものかのため、身体の自由を失ったのであろうと察した。ああ、いつの間にか恐るべき争闘がこの深海底で始まっていたのである。ワーナー調査団対怪物団!
 水戸は、今も自分が怪物団に見つけられはしないと危惧《きぐ》しながらも、その位置を動くことはしなかった。もし動けば、たちまち見つけられそうであった。このままじっとしていれば、灯台下暗しで、もう暫くは見つけられずに済みそうな気がした。
 怪物たちは、飾窓のようなものの中でざわめき立ち、頭を寄せ、鞭のような細い手を互いに絡《から》みつかせて協議をしているように見えたが、やがてそれを解いて、ぞろぞろと奇妙な歩き方をして奥へ消えた。
「今だ」
 と、水戸記者は思った。彼はむっくり起上って、始めてあたりをよく見廻した。そこで一切の事情が分かったような気がした。水戸が今まで横たわっていたところは大きな城壁の真下ともいうべき場所だった。その城壁は相当の高さであって、頂上は見えなかった。また左右のひろがりも見極めかねた。とにかく巨大な艦船みたいなものがこの海底にどっしりと腰を据えていることは確かであった。そしてそれには今も明るく外へ光を出している飾窓のようなものが
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