た。
だがこの論議は、その影響するところの重大性に鑑《かんが》み、明らかなる国名は新聞や放送には発表されなかった。つまり遠慮されたのである。
しかるに別途、一つの疑惑に火がつけられた。それは、ゼムリヤ号がソ連船であり、そして驚異の性能を持った新鋭砕氷船であり、その行動も事件発生の三週間前から杳《よう》として謎に包まれているのにも拘《かかわ》らず、ソ連側からは一向何らの弁明すら発表されていないのはどうした訳かというのであった。そのために、問題の某国とはソ連のことではないかという臆説までが飛び出すようなことになってしまった。
そういう最中にソ連側の釈明が、ようやくにして公表されるに至った。その釈明は非常に簡単で、次のようなものであった。
“ゼムリヤ号は赤洋漁業会社の要求によりマルト大学造船科が設計した世界一の新鋭漁船である”
かかる世界に誇るべき国宝級の船舶を何故に我国は自らの手を以て破壊するであろうか、また同船の乗組員は船長以下、国賓級人物を以て組織せられていたが、かかる人物を全部何故に自ら喪《うしな》うであろうか、釈明文は簡単であったがそれまでにおける世間の無責任なる憶測を一撃氷解させるだけの偉力があった。果して多くの人々が、この釈明に頗《すこぶ》る満足の意を表すると共に、かかる立派なる釈明があるなれば、何故にもっと早期において発表されなかったかを遺憾《いかん》とする者もあった。とにかくこの釈明によって、原子爆弾の秘密実験を行った某国というのはソ連ではなかったことが明瞭となった。この釈明の出た直後は、世界の隅々までにこの報道が行渡り話題としてにぎわった。ドレゴと水戸の両人もまた午後三時のお茶をのみながら、この事について語り合った。
「僕はてっきりそうだと思っていたがね。だから僕は前にホーテンスにそのことをいいかけて、周章《あわ》てて口を噤んだのだ。彼を無用に刺激《しげき》したくはなかったのでね」
ドレゴがいった。水戸は黙って肯いた。
「おや、君は何か別の意見を抱いているのかね」
ドレゴが、水戸の硬い面を凝視した。
「いや、僕は始めからあの国を疑ぐりはしなかった。しかしあの国は何故“ゼムリヤ号は当時|賑《にぎや》かな大西洋を航行中だったんだから、そのような嫌疑は無用である”という謂い方で釈明しなかったんだろうか。この事実を投げ出せば、釈明は一言でもって明
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