かえって銀座を散歩してみたい気持に襲われ、そこからこっち、ずっと元気をなくしていたが、いまこうした父島でもって、あの婦人のおかげでおもいがけなく元気を恢復しようとは予想していなかった。
 多分あの人達も、この様子では、花陵島へ上陸するのではあるまいか。そう思うと、僕はなんだか極楽行の宝船にのりこんだような気がしてきてならなかった。ところが、これがとんだ感ちがいで、実はそのとき僕は、世にも恐ろしい目にあうための地獄行の運命船にのりこんでいたのだとは、ずっと後になってやっと分ったことである。

     涼風ふく甲板

「おお、君は加瀬谷教授の門下かね」
 その翌朝のことであったが、涼しい甲板の藤椅子に並んで、轟博士が精力家らしい大きい声でいったことである。すでに、自己紹介をすませていた。
「加瀬谷は、僕と同じ中学の出で――もっともわしが四年も上級だったが――よく知っているよ。そのころからわしは火星の研究をやっていたが、あいつは小さいくせに、いつも悪口ばかりいってね。『轟さんのように火星ばかりをのぞいていると、いまに火星の人間にさらわれてしまうぞ』などと、憎まれ口を叩いたものじゃ。あっはっはっ」
 僕は、太平洋のまんなかで波にゆられながら、恩師の少年時代のうわさを聞こうとは、夢にもおもっていなかった。
「先生は、こんどもやっぱり火星研究のご旅行なんですか」
「なんじゃ、妙なことを聞く男じゃ」
「いや、ちがいましたら、おゆるしください」
「あっはっはっ。なにがちがうどころか。およそわしは、火星以外のことで旅行をしたり、金をつかったりすることは絶対にないのじゃ。君は知らんのか。この五月十八日に、火星はいちばん地球に近づくのじゃ。だから、それを期して、いろいろ興味ある観測をせんけりゃならん。そうでもなきゃ、花陵島なんて、あんな辺鄙なところへ金と時間とをかけて行きゃせぬわい」
「ああ、先生ご一行はやっぱり、僕と同じように花陵島へいらっしゃるんですか」悦びのあまり僕はおもわず大きな声でいったので、博士は眼鏡の奥で、ぎょろりと両眼をうごかした。
「お話中で、おそれいりますが――」
 彼女の声だ。僕はどきりとした。なんといういい香水か、彼女の身体から発散するのが、僕の内臓をかきたてる。
「うん、なんじゃ志水」
「さっき持ってこいとおっしゃったのは、この鞄でございましょうか」
「ああ、それそれ。そこへおいておけ。その椅子のうえに――」
「はあ、ではここに」
 彼女は僕に会釈して船室へひきかえした。僕は、うしろから追いかけていって連れもどしたい衝動にかられた。
「いまのお方は、先生のご令嬢でいらっしゃいましょうか」
 僕は、おもいきって、重大な質問の矢をはなった。
「誰? あああの女かね。あれはわしの助手をやっとる志水理学士じゃ」
 助手なのか。志水理学士――なるほど、そういえば新聞などに時々博士と名前が並んでいる記憶があった。
 轟博士は、僕の心のなかの動揺などにはいっこう無頓着に、
「おい君。君は地震を研究するにしても、あまり加瀬谷の学説などを鵜のみにしていちゃとてもえらい学者になれんぞ。当の加瀬谷にしてもそうじゃ。昔からせっかくわしが注意をあたえているのに、その注意を用いないからして、いまだに平々凡々たる学者でいる」
 轟博士は、いいたいことをずばりといって平気な顔をしている。師の悪口をいわれて、僕は内心おだやかではなかった。
「いまおっしゃいました加瀬谷先生へのご注意というのは、いったいどんなことですか」
「それかね。それは――」といいかけて博士は言葉を切った。「君も加瀬谷の門下だから、わしが話してやっても多分分るまい。わしはこのごろ気がかわって、従来とはちがって無駄なことは喋らないことにした。そのかわり、実際の物をつかまえて、さあこのとおりだ、よく見ろ――というふうにやることに変更した」
「では、こんどのご旅行も、火星の運河などを写真にとって、実際私たちにみせてくださるためなんですか」
「火星の運河? あっはっはっ火星の運河などがあってたまるものか。火星に運河があるというのは、火星の表面に見える黒い筋を運河だと思っているのだろうが、それは大まちがいだ。船みたいなもので交通しなければならぬような、そんな未開な火星ではない。地球上の常識で、運河説を得々と述べる者は、身のほど知らぬ大馬鹿者だというよりほかない」
 轟博士の語気は、老人と思われぬほどつよかった。
「では、運河みたいなあの黒い筋は、いったいなんですか」
 と僕は聞かないではいられなかった。
「さあ。あの黒い筋がなんであるか、それをわしが説明しても、君はやっぱり信用しないだろう。さっきいったように、わしは当分喋ることはやめて、そのかわりに実際的なものを地球の人々の目の前にもっていって
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