じゃないですか。こいつは頗《すこぶ》る大切な事項なのに……」
「そんなことは訊くまでもないさ。これから行って、あのひとにまといついているその男の顔を実際にわれわれの目が見るのが一番明瞭で、いいじゃないか」
「呑気《のんき》だなあ」
「ムサシ君。事件依頼者からは、なるべくものを訊かないようにするのがいいのだよ。こっちの手で分ることなら、それは訊かないに越したことはない」
「そうですかねえ」
甥の蜂葉十六は不満の面持だ。
「君も一緒に行ってくれるだろう。私はあと五分で出掛ける。もちろんあの恐ろしい顔の男を見るためにだ」
「僕はもちろんお供しますよ、おじさま」
甥は急に笑顔になった。
水銀地階区三九九――が谷間シズカと碇曳治との愛の巣の所在だった。
老探偵は甥と肩を並べて、その近くまでを|動く道路《ベルト・ロード》に乗って行き、空蝉《うつせみ》広場から先を、歩道にそってゆっくり歩いていった。
このあたりは五年ほど前に開発された住宅区であったが、重宝《ちょうほう》な設計のなされているのに拘《かかわ》らず、わりあいに入っている人がすくなかった。それは場所が、最も都心より離れていて、不便な感じのするためであったろう。しかし時間の上からいえば、高速度管道を使えば、都心まで十五分しかかからないのであったが……。みんな性《せっ》かちになっているんだ。
探偵は、ゆるやかな坂道をあがっていった。この坂の上が三九九の一角で、そこにアパートがあるはずだった。最近のアパートは目に立たぬ入口が十も二十もあって、人々は自分の好む通路を選んで入ることが出来る。――それだけに探偵商売には厄介《やっかい》だった。
「来たね。ふうん。これはあのあたりから入りこむのがいいらしい」
老探偵の直感は、多年みがきをかけられたものだけに凄いほどだった。甥は、いざとなれば、すぐ伯父の前へとび出して、相手を撃ち倒すだけの心がまえをして、しずかについて行く。
地中に眼鏡橋が曲ってついている――ような通路がついて、奥の方へ曲って入りこんでいる。が、天井にはガス放電灯が青白い光を放って、視力の衰えた者にも十分な照明をあたえている。
老探偵が、急に立停った。心得て甥が伯父の背越しに頤《あご》をつき出す。
「七つ目のアーチの蔭に――ほら、身体を前に乗り出した」
「見えます、僕にも。ああッ。……実にひどい顔!」
「ううむ」老探偵も携帯望遠鏡を目にあてたまま呻《うな》る。「ああいう畸形にお目にかかるは始めてだ。胎生学《たいせいがく》の原則をぶち壊している。傾壊しかかった家のようじゃないか」
「おそろしい顔があったものですね」
前につき出した顔や、後に流れたような顔は、それほどふしぎではない。その他のおそろしい顔であっても、まず原則として、顔のまん中の鼻柱を通る垂直線を軸として、左右対称になっているものである。おそろしい大関格のお岩さまの顔であっても、腫物《はれもの》のためなどで左右の目がやや対称をかいているが、全体から見ると顔の軸を中心として左右対称である。――ところが今見る顔はそうでない。第一、鼻柱が斜めに流れている。そして全体が斜めに寝ている。ふしぎな顔だ。その上に、腫物のあととも何とも知れぬ黒ずんだ切れ込みのようなものが顔のあちこちにあって、それが彼の顔を非常に顔らしくなくしている。唇も左の方に、かすがいをうちこんだようなひきつれが縦に入っている。こんな曲った顔、こんな気味の悪い顔は、図鑑にものっていない。いびつな頤は見えるけれど、いびつである筈の頭蓋は茶色の鍔広《つばひろ》の中折帽子のために見えない。
老探偵は、いつの間にか相手を小型カメラの中におさめていた。
「おいムサシ君。これからあの人物に、面会を求めてみる」
「逃げ出すようなら取押えましょうか」
「いや、相手の好きなままにして置くさ。機会はまだいくらでもある」
その言葉が終るが早いか、老探偵は通路の角からとび出した。甥はそれを追いかけるようにして進む。
が、老探偵の歩調は、だんだん緩《ゆる》くなっていった。彼の口には、いつの間にかマドロス・パイプが咥《くわ》えられていた。煙草をすっかりやめた彼にも、仕事の必要からして代用煙草のつまったパイプを嘗《な》めることもある。彼はゆっくりした歩調で、怪漢の前に近づいた。そして遂に足を停めた。
「失礼ですが、谷間シズカさんという方の住居が、このへんにございませんでしょうか」
突然話しかけられて怪漢はびっくりしたらしく、奇怪な顔が更にひん曲ってふしぎな面になったが、男はすぐ手袋をはめた両手で、自分の目から下の顔を蔽《おお》った。彼ははげしく左右に首を振った。
「左様で。ご存じありませんか。それは失礼を……。へんなことを伺いますが、あなたさまは前に船に乗っていらっしゃらなかったでしょうか。わしも永いこと船乗りだったんですが、わしはあなたさまを何処かでお見受けしたように思いますがな……」
すると相手は、獣のような叫び声をあげた。そして老探偵をその場へつきたおすと自分は素早くばたばたと逃げ出した。甥の蜂葉が、ピストルを構えた。老探偵が「射つな」と叫んだ。怪漢は、ひどく足をひきながら、蝙蝠《こうもり》が地面を匐《は》うような恰好《かっこう》で逃げていった。そして坂の途中で、アパートとは反対の左側の壁へとびこんでしまった。
愛の巣訪問
「おじさま。駄目ですね」
帆村を抱き起して、服についた泥を払ってやりながら、甥っ子は思ったことをいった。
「なにが駄目だい」
「まずいじゃありませんか。いきなりあの男に、谷間シズカさんのことを聞いたりして……。あれじゃ彼は大警戒をしますよ」
「あれでいいんだよ。わしはちゃんと見た。あの男にとっては、谷間シズカなる名前は、さっぱり反応なしだ。意外だったね」
「ははあ、そんなことをね」
蜂葉青年は、ちょっと耳朶《みみたぶ》を赭《あか》く染めた。
「船乗りだったろうの方は反応大有りさ。そこでわしを突倒して逃げてしまった」
「どうして船乗りだと見当をつけたんですか」
「それはお前、あの帽子の被り方さ。暴風《サウエスター》帽はあのとおり被ったもんだよ」
「ははあ。それで彼が船乗りだったら、この事件はどういうことになるんです」
「それはこれから解《と》くのさ。彼が船乗りだというこの方程式を、われわれは得たんだ」
「関連性がないようですねえ」
「いや、有ると思うね。彼が船乗りだということが分ると、そのことがこの事件のどこかに結びつくように感じないか」
「さあ、……」
甥は、脳髄を絞ってみたが、解答は出なかったので、首を左右に振った。
「あんまりむずかしく考えるから、反《かえ》って気がつかないんだねえ」
老探偵は笑って、オーバーのポケットへ両手を突込んだ。
「さて、ちょっと谷間夫人を訪問して行くことにしよう」
「正式に面会するんですか」
「いや略式だよ。君に一役勤めて貰おう。こういう筋書なんだ」
老探偵はその甥に何かを低声《こごえ》で囁いた。甥はいたずら小僧みたいな目をして、悦《よろこ》んでそれを聞いていた。
たしかに碇曳治と谷間シズカの名札のかかったアパートがあった。甥は呼鈴を押そうとした。
「待った。計画変更だ。この家にはテレビジョン電話が入っている。電話で呼出せばいいよ。君は新聞社から電話をかけていることにするんだ」
帆村はポケットから紐《ひも》のついた器械をとり出して、玄関の壁へ匐いこんでいる電線に、重ねた。そしてしばらくそれをいじっていたが、間もなく甥の方へ振返って合図をした。蜂葉は、替ってその器械を受取った。そして低声で電話をかけだした。
「……碇さんのお宅ですね。奥さんでいらっしゃいますか。こちらはサクラ新聞社です。御主人いらっしゃいますか。いらっしゃいましたら、ちょっと電話に出て頂きたいんです」
かの谷間シズカ夫人は、蒼ざめた顔を一層険悪にして、テレビ映写幕から蜂葉を睨んだ。
「どういう御用でしょうか。おっしゃって頂きます」
「実は御主人のファンから手紙とお金が届いているんです。つまり御主人が火星探険隊員として大きな殊勲をたてられたことに対して一読者から献金して来たんですがね、そのことについて一寸《ちょっと》お話したいんです」
この申入れは、てきめんの効果があった。シズカ夫人はたちまち表情を一変して、得意の笑顔となり、別室へ碇を呼びに行った。帆村は、側路に取った別の小型の映写幕装置へ両眼をぴったりあてていた。これは相手の顔が見えるだけで、帆村の顔は先方へ電送されない。
碇曳冶の憤った面が、幕面にとび出して来た。
「折角だが、そんな金は貰いませんよ。送り返して下さい。僕はそんなに礼讃される男じゃない。放っておいてください。そして僕のことを探険隊員として新聞でよけいな報道をすることはもうよして下さい。甚だ、迷惑だ」
碇が電話を切ろうとしたのを、傍にいたシズカ夫人がその手をおさえて、代りに電話に出た。
「どうも何とも申訳ありません。あのひとは非常な謙遜家《けんそんか》でございまして、このごろでは自分を英雄として宣伝されることをたいへん嫌って居りますんですのよ。新聞社の方へは、あたくしが代りに伺いまして、お詫びやらお礼を申上げますから、どうかお気を悪くなさらないように」
「いや、気は悪くしてはいませんが、ファンの手紙と金は受取って下さい。じゃあ郵便でそっちへお送りしましょう」
老探偵の合図によって、テレビ会見は終幕となった。器械をしまって、足音を忍んで、アパートの前を立ちのいた。
下りの坂道にかかったとき、蜂葉はもう辛抱が出来ないという風に、無言行《むごんぎょう》の伯父に呼びかけた。
「今の僕のやり方でよかったですか」
「結構だった」
「そんならいいが……しかしおじさま、あれだけでは碇に怒鳴りつけられただけで、さっぱり収穫はないじゃないですか」
「君はそう思うかね」老探偵は唇をぐっとへの字に曲げた。「私はいろいろと新しいことを知った」
「え、新しいことをですか。どんなことです。それは……」
「君にも分っていると思うんだが、あの二人は正《まさ》に同居していたこと」
「そんなことなら僕だって分る……」
「それからシズカ夫人は碇氏を誇りとしていること。ところが碇氏はそうでなくて、探険隊員のことで宣伝されるのを厭《いや》がっていること――このことが私には最も大きな収穫だった。それによって私は、これからすぐに訪問しなければならない所が出来た」
「面白いですね。どこへでもお供します。しかしおじさま。事件の本筋を離れるんじゃありませんか。だって碇氏の方のことを調べたって、シズカ夫人につけまとう恐ろしい顔の男の方は解決されないでしょうから……」
「まあ、私について来るさ。とにかく何でもいいから、腑《ふ》に落ちないものが見つかれば、それをまず解決して行くのがこの道の妙諦《みょうたい》なんだ。案外それが、直接的な重大な鍵を提供してくれることがあるんでね」
「またおじさまの経験論ですか。それは古いですよ。統計なんておよそ偶然の集りです。確率論で簡単に片附けられる無価値なものですよ」
「条件をうまく整理すれば、そんなに無価値ではなくなる。まあ、行こうや」
記録秘録
桝形《ますがた》探険隊事務所では、帆村たちを、防弾天井越しに青空の見える円天井広間へ招じ入れた。
桝形隊長は、帆村とは前々から或る仕事に関して同僚であったことがあり、しかもその当時帆村の並々ならぬ尽力によって、彼が危機を救われたこともあって、帆村に対しては最大級の礼をもってしなければならない立場にあった。だが、彼が心の底から帆村に感謝しているかどうか、それは分ったものでない。こういう場合、世間では先に自分を救った者を煙ったく思って敬遠したり、又ひどい例では、隙があらば恩人の足をすくって川の中へ放り込もうとする者さえある。
桝形は、五十がらみの、でっぷり肥ったりっぱな体躯の男だったが、帆村たちの待っている青空の間へ足を踏み入れると、急にに
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