「ううむ」老探偵も携帯望遠鏡を目にあてたまま呻《うな》る。「ああいう畸形にお目にかかるは始めてだ。胎生学《たいせいがく》の原則をぶち壊している。傾壊しかかった家のようじゃないか」
「おそろしい顔があったものですね」
 前につき出した顔や、後に流れたような顔は、それほどふしぎではない。その他のおそろしい顔であっても、まず原則として、顔のまん中の鼻柱を通る垂直線を軸として、左右対称になっているものである。おそろしい大関格のお岩さまの顔であっても、腫物《はれもの》のためなどで左右の目がやや対称をかいているが、全体から見ると顔の軸を中心として左右対称である。――ところが今見る顔はそうでない。第一、鼻柱が斜めに流れている。そして全体が斜めに寝ている。ふしぎな顔だ。その上に、腫物のあととも何とも知れぬ黒ずんだ切れ込みのようなものが顔のあちこちにあって、それが彼の顔を非常に顔らしくなくしている。唇も左の方に、かすがいをうちこんだようなひきつれが縦に入っている。こんな曲った顔、こんな気味の悪い顔は、図鑑にものっていない。いびつな頤は見えるけれど、いびつである筈の頭蓋は茶色の鍔広《つばひろ》の中折帽子のために見えない。
 老探偵は、いつの間にか相手を小型カメラの中におさめていた。
「おいムサシ君。これからあの人物に、面会を求めてみる」
「逃げ出すようなら取押えましょうか」
「いや、相手の好きなままにして置くさ。機会はまだいくらでもある」
 その言葉が終るが早いか、老探偵は通路の角からとび出した。甥はそれを追いかけるようにして進む。
 が、老探偵の歩調は、だんだん緩《ゆる》くなっていった。彼の口には、いつの間にかマドロス・パイプが咥《くわ》えられていた。煙草をすっかりやめた彼にも、仕事の必要からして代用煙草のつまったパイプを嘗《な》めることもある。彼はゆっくりした歩調で、怪漢の前に近づいた。そして遂に足を停めた。
「失礼ですが、谷間シズカさんという方の住居が、このへんにございませんでしょうか」
 突然話しかけられて怪漢はびっくりしたらしく、奇怪な顔が更にひん曲ってふしぎな面になったが、男はすぐ手袋をはめた両手で、自分の目から下の顔を蔽《おお》った。彼ははげしく左右に首を振った。
「左様で。ご存じありませんか。それは失礼を……。へんなことを伺いますが、あなたさまは前に船に乗っていらっしゃらなかったでしょうか。わしも永いこと船乗りだったんですが、わしはあなたさまを何処かでお見受けしたように思いますがな……」
 すると相手は、獣のような叫び声をあげた。そして老探偵をその場へつきたおすと自分は素早くばたばたと逃げ出した。甥の蜂葉が、ピストルを構えた。老探偵が「射つな」と叫んだ。怪漢は、ひどく足をひきながら、蝙蝠《こうもり》が地面を匐《は》うような恰好《かっこう》で逃げていった。そして坂の途中で、アパートとは反対の左側の壁へとびこんでしまった。


   愛の巣訪問


「おじさま。駄目ですね」
 帆村を抱き起して、服についた泥を払ってやりながら、甥っ子は思ったことをいった。
「なにが駄目だい」
「まずいじゃありませんか。いきなりあの男に、谷間シズカさんのことを聞いたりして……。あれじゃ彼は大警戒をしますよ」
「あれでいいんだよ。わしはちゃんと見た。あの男にとっては、谷間シズカなる名前は、さっぱり反応なしだ。意外だったね」
「ははあ、そんなことをね」
 蜂葉青年は、ちょっと耳朶《みみたぶ》を赭《あか》く染めた。
「船乗りだったろうの方は反応大有りさ。そこでわしを突倒して逃げてしまった」
「どうして船乗りだと見当をつけたんですか」
「それはお前、あの帽子の被り方さ。暴風《サウエスター》帽はあのとおり被ったもんだよ」
「ははあ。それで彼が船乗りだったら、この事件はどういうことになるんです」
「それはこれから解《と》くのさ。彼が船乗りだというこの方程式を、われわれは得たんだ」
「関連性がないようですねえ」
「いや、有ると思うね。彼が船乗りだということが分ると、そのことがこの事件のどこかに結びつくように感じないか」
「さあ、……」
 甥は、脳髄を絞ってみたが、解答は出なかったので、首を左右に振った。
「あんまりむずかしく考えるから、反《かえ》って気がつかないんだねえ」
 老探偵は笑って、オーバーのポケットへ両手を突込んだ。
「さて、ちょっと谷間夫人を訪問して行くことにしよう」
「正式に面会するんですか」
「いや略式だよ。君に一役勤めて貰おう。こういう筋書なんだ」
 老探偵はその甥に何かを低声《こごえ》で囁いた。甥はいたずら小僧みたいな目をして、悦《よろこ》んでそれを聞いていた。
 たしかに碇曳治と谷間シズカの名札のかかったアパートがあった。甥は呼鈴を押そうとした。
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