い話のつづきを聞きたがった。
 大熊老人も、喜助少年も、こうして毎日を至極幸福に平和に暮していた。それは金銭問題を離れた、神か大愚かというような清浄な生活だった。このような泪ぐましい情景は、末永く二人の上に止っているように誰しもが祈りたいところであるが、筆者は文章を売るため心を鬼にして、ここに突如として降って湧いたようなカタストロフィーについて述べなければならない。

        二

 日頃元気な大熊老人が、一週間ほどこっちへ、どうも何だか気分がすぐれないと云って、床についた。
 老人が病床に横わると、即日といわず、即時から親戚の者共が大騒ぎを始めた。花を毎日取りかえる者があり、銀座裏の上方《かみがた》料理のうまい家から、凝りに凝った料理を作らせては老人にとどけるものもあった。何処からとりよせたか、果物の王様といわれるマンゴーの生々したのを老人の枕頭に供えるものもあった。日頃|健啖《けんたん》な大熊老人は、それ等の届けものの食料品を、とに角|一《ひ》と通りは味わってみるのであった。
 中には、老人の箸のつけ方が少かったといって悲観するものがあるやら、あの果物がすくなくとも五万円に売れたろうと胸算用をする者もあった。
 喜助は老人が病気になると、すぐさま勤めを休み、枕頭につめきって介抱をした。看護婦のよく行きとどいた世話振りよりも、喜助のヘマ[#「ヘマ」に傍点]な手伝いの方が、どんなにか老人を喜ばせたり、元気づけたりしたかしれなかった。老人がいつになく枕があがりそうもない様子であるのを見てとると、喜助には大熊老人がいよいよ懐しいものに思われて来た。老人の容態が一歩悪化すると、喜助の食慾も一椀がところ減退した。彼は科学者の教育をうけたに似ず、心の中で心あたりのある明神様だとか、観音様などを、それからそれへと、いくつも並べ唱えては、老人が全快に向うことを祈った。しかしその効目はすこしも現れて来る模様がなかった。もしや、老人が此儘死んでしまうようなことがあれば、自分はどんなに淋しい身の上になることであろうか、それは帰るべき塒《ねぐら》を失った仔鳥よりも、いく段か不見目《みじめ》であろうと思われる。仔鳥にはどこかに友達があるが、彼には凡《およ》そ力になって呉れる人物など見当らなかった。彼は恐怖に似た魔物が、背後の真暗からジワジワと忍びよってくるその衣ずれの音を、ハッキリ聞きわけることができるようになった。
 梅雨空に重い雲が渦をなして老人の病室近くに舞い下り、枕許につめている人々は、煌々《こうこう》たる電灯の明るさに、昼と夜との錯覚をひきおこすようなことになった或る不気味な日の午後、大熊老人は全く意識不明に陥り、やがてその夕刻、脈膊《みゃくはく》も薄れて、眠るが如く大往生《だいおうじょう》を遂げてしまった。
 喜助少年は、今や前後を忘却して、大声をあげて、泣き喚きながら、老人の亡骸《なきがら》に縋《すが》りついた。
「おじいさん。おじいさァん。どうして死んだんです。しっかりして下さァい。もう一遍生きて下さい。冷くなっちゃいやだなァ。よォ、おじいさん、しっかりして下さァい!」
「オイ君、止さないかッ」
 突然、頭の上で太い声が怒鳴った。喜助にはそんな声なんか、アルゼンチンでしているようなものだった。喜助が一向その声を聞き入れないのを見ると、太く逞《たくま》しい腕が四本ばかり、グッと伸びてきて喜助の頸筋をつかんで、その身体を軽々とひっかつぐと、宙を渡らせて、エイヤッ、ドタリと、次の間の畳の上に投げとばした。
「ウワーン、痛いよ、乱暴な!」
 喜助は、不意打を喰って、しばらく息が止っていた。顔をあげると、老人の亡骸を遮るようにして一団の人々が刑務所の高塀のように厳《いか》めしく立ち並んでいた。
「…………」
「お前は何者だ」と喜助の面前に調子の荒っぽい言葉が飛んだ。「お前は大熊家にとって何者なんだよォ。ここは他人は一切入れないことに決定《きめ》た。親族会議の決議だ。お前はサッサと出て行って、二度と当家の門をくぐって貰っては困る」
「でも、僕は……」
「ダ、ダ、黙れ! 他人は帰ってもらいたい。それでも入って来ると、法律で警察へつき出すから、そう思え」
 喜助は、そんな乱暴な口を利いている男の顔をはじめてマジマジと見上げて、大いに驚いた。それは四五日前までは、毎日のように彼のところへ来ては、老人へのよき執成《とりなし》を、蒼蠅《うるさ》いほど頼んでいた千石虎之進《せんごくとらのしん》という、死んだ老人の末弟に当る男であった。彼は若い時分から、すこぶる道楽に身を崩し、詐偽のための前科もある三百代言であった。それに連る男女の一群は、いわずと知れた親族と称する実は遺産目当てのたかり[#「たかり」に傍点]連中であった。
「他人は帰れ!」
 の一言に
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