あきれた二人達れだろう。自分たちの話に夢中になって、わたくしの突《つ》き当《あた》ったことに気がつかないのだ)
 だが、待てよ、どうも腑《ふ》におちぬことがある。まさか、二人の目の前にわたくしが立っているのであるからして、それに気がつかぬというのはおかしい。どうもおかしい。
 わたくしは、とてもへんな気持で、またそのまま、くぬぎ林の中を歩いていった。月光は、梢《こずえ》の間から草の上にもれて、ちらりちらりとひかっていた。
 すると、わたくしは、また新しい一組の若き男女が、林の奥から、しずかな歩調でもって出てくるのを見つけた。
(なんと、二人連れの多い夜だろう)
 と、わたくしは、最初|憂鬱《ゆううつ》になり、ついで憤慨した。
(ついでに、こいつ等にも、ぶつかってくれよう!)
 わたくしの邪心は、勃々《ぼつぼつ》としておさえがたく、ついにまたしても、新来の男女が、ぴったりとより添っているあたりを目がけて、どすんと突き当った。その効果は、どうであったか。
 その結果は、びっくりしたのは、わたくしの方であった。
 なぜなれば、かの両人は、
「あら、およしなさいよ、松島さん」
「あれッ、ひどいよ、君ちゃん。君の方が、ぶつかっておいて……」
 と、互いに相手がぶつかったと信じ合い、とうの昔に、両人の間をすりぬけて、そのうしろに立っているわたくしの存在には、一向に気がつかない様子だった。
 これには、わたくしも、
(おやッ、これはへんだぞ!)
 と、思わずつぶやいたことである。
「あれえ、誰かいるわよ」
「さあ、誰もいやしないよ」
「あら、誰もいないのね。いま、へんだぞとかなんとかいったように思ったけれど……」
 両人は、わたくしの方に顔を向けたまま、そんな風に話しあった。しかもわたくしのいることについて、全然気がつかないようであった。
 そこでわたくしは、襟筋《えりすじ》が、ぞーッと寒くなったのを、今でもよく覚えている。
(へんだ。前の二人も、今の両人も、どうやらわたくしのいるのに気がつかないようだ。そんなことがあっていいかしら)
 わたくしは、だんだん気がへんになってきた。胸はどきどきとおどってきた。気が変になりそうになった。
 わるいと思い、おそろしいとも思ったけれど、わたくしは、つづいて第三の一組に対しても、ためしをやってみた。その結果も、また実にかなしむべきものであった。誰も、わたくしの存在に気がつかないのである。わたくしの身体が、彼等に見えないのである。こんな悲しむべき、かつ又恐ろしきことが、またとあるであろうか。
 それからわたくしは、戸山ッ原の草のうえに、一時間あまりも転がって、ひとりで煩悶《はんもん》をつづけた。そのうちに、月が雲の中に入って、あたりも暗くなったので、わたくしは立ちあがって、自分のアパートへ帰ってきたのである。そして鍵をまわして、自室に入り、寝床の中にもぐりこんだ。そして朝まで睡《ねむ》ってしまった。
 その翌朝、元来|暢気《のんき》に生れついたわたくしは、昨夜の恐ろしかりしことどもをついわすれ、起きるとそのまま歯みがき道具と手拭とをさげて、洗面所へいった。
「やあ、今ごろ起きたのか。ばかにゆっくりだね」
 と、わたくしは声をかけられた。
 わたくしは、その途端に、はっと思った。声をかけてくれたのは、同じアパートの住人にして草分《くさわけ》をもって聞える藤田という大道人相見の先生だった。
「……」
「なんだい、その顔は。鼠が鏡餅の下敷きになったような当惑顔をしているじゃないか」
 藤田師は、例によって辛辣《しんらつ》なことばを、なげつける。わたくしは、そのとき、咽喉のところまで出てきたことば――藤田さん、わたくしが見えるかね、わたくしの身体が――と聞きたいのを懸命に我慢した。そしてわたくしは、自分の背後をふりかえってみたのであった。それはもしや藤田師が、わたくしの後に立っている他の者に対して、話しかけたのではないかを知るためだった。
 その結果、わたくしは、初めて、大安心をすることができた。わたくしの後には誰もいなかった。廊下は、奥の方まで素通《すどお》しで、猫一匹、そこにはいなかった。
「やあ、藤田さん。ゆうべは、だいぶん儲《もう》けたらしく、機嫌がいいね。はははは」
 と、わたくしは、初めて笑いごえを立てた。
「うふ、ゆうべだけじゃないよ。このごろは、亡者《もうじゃ》ども、一般に金まわりがよいと見えて、見料の外にチップを置いていくよ。呆《あき》れた時勢だな。はッはッはッはッ」
 藤田師の笑い声は、わたくしにとって、千両万両の値打があった。わたくしの身体は、たしかに見えるのである。その証明が、この藤田師によって、りっぱに立ったのである。わたくしは、天にものぼらんばかりの巨大なる悦《よろこ》びを感じた次第
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