ているように思われた。(断っておくが、前の時計は、電気時計である。まさか十二時すぎまで、ブラック・コーヒーをのませる店があるものかという人には告げん、闇取引のコーヒー店あることを! これを信じない人は、後段を読むこと無用である。なぜならば、そういう人にはこれから述べようとするわたくしの真実の実話などは、到底なんのことだか信じられないであろう)
 だんだんと、篩《ふるい》をかけてきた結果、いよいよ真相を告げておよろしい頃合となったと思うが、わたくしは、人通りまばらなる舗道のうえを歩きだした。わたくしのアパートは、戸塚三丁目にあるので、新宿から歩きだすと、途中で戸山ッ原のさびしい地帯を横断して帰るのが一等|捷径《ちかみち》であった。だからそのときも、従来の習慣に従って、正にそうしたのであるが、その結果、遂に戦慄すべき発見に正面衝突をしなければならなくなったのであった。
 さて、わたくしは、電灯を几帳面《きちょうめん》に盡《ことごと》く消し去って、おそろしく大きなボール紙の函が落ちているとしか見えない某百貨店の横をすりぬけ、ついで出来のわるい凸凹の長塀としか見えない小売店街のいびきの中をよたよたと通って、ついに戸山ッ原の入口にと、さしかかった。
 深夜の戸山ッ原!
 それは知る人ぞ知るで、まことに静かな地帯である。地帯一帯を蔽う、くぬぎ林は、ハヤシの如くしずまりかえっているし、はき溜《だめ》を置いてあるでなし、ドブ板があるでなし、リーヤ・カーが置きっ放しになっているではなし、ましてやネオンサインも看板もない。そこに在るものは、概して土で、その外、くぬぎの木と、背丈の短い雑草とキャラメルの空函ぐらい、あとは紙類がごそごそ匐《は》っている程度である。実に一向開けない原っぱであるが、これが歌舞伎芝居なら、大ざつまを入れて、柝《き》の音《ね》とともに浅黄幕《あさぎまく》を切っておとし、本釣《ほんづ》りの鐘をごーんときかせたいところであるが、生憎《あいにく》そんなものは用意がしてなくて、唯《ただ》聞えるは、草の根にすだく虫の音ばかり、とたんに月は雲間を出でて、月光は水のように流れ、くぬぎ林はほのぼのと幹を露呈《ろてい》してわが眼底に像を結んだ。わかりやすく言えば、月が出て、林が明るくなっただけのこと。
 そのときわたくしは、無人の境だとばかり思っていたこの戸山ッ原に、人がいるのを知って、びっくりした。それは、くぬぎ林の中から、急に人間が出て来たのである。人数は二人であった。一人は若い男で、他の一人は若い女であった。
 二人は、何か早口で喋《しゃべ》りながら、こっちへやってきた。わたくしはそれを見て、少々|癪《しゃく》にさわった。そういう気持は、誰にでも判るであろう。わたくしは、わざと意地《いじ》わるく二人の邪魔になるように歩いていった。若き男女は、わたくしの悪意を間もなく見破って、横にさけるであろうと、わたくしは予想していた。ところが、わたくしが近よっても、二人の男女は、一向にわたくしをさけようとはしないのであった。これには、わたくしも腹を立てて二重に癪にさわったことであった。
 そのままわたくしが前進すれば、必ず二人の男女にぶつかるしかない。相手は、あいかわらず一直線に近づいてくる。それを見て、わたくしは、こっちで道をさけようかと思った。しかしわたくしが道をさけるいわれは一向にないことに気がついた。相手は二人でたのしんでいるのである。われは一人で一向楽しんでいない。しからば恵まれたる彼等は、恵まれざるわれのために道をゆずるぐらいのことはしてもよいではないか。
 そう思ったわたくしは目をつぶらんばかりにして前進した。
(あぶない!)
 どすんと、わたしの身体は、若き男の方にぶつかった。
「あいたッ」
 と、その若き男は叫んだ。そしてよろよろとうしろによろめいた。(倒れるか、気の毒に……)と思ったのは、わたくしの思いあやまりで、かの若き男は、ぐっと一足をついて体勢をたてなおした。
「おや、へんだな。――そして僕は伯父にいったんだ。僕はこれがうまくいかなければ……」
 と、早口で喋るのは、その若き男であった。
「あら、どうしたの、今? あんた倒れそうになったじゃないの」
 と、若き女がいった。
「ああ、なんだか身体が、あんな風になっちゃったんだよ。もういたくも何ともないよ。――それで僕は伯父に……」
「だけれど、へんね。まるで、目まいでも起こしたようだったわね」
「なあに大したことはないよ。僕、このごろすこし神経衰弱らしいのでね」
 そういいながら、二人の若き男女は、呆然《ぼうぜん》たるわたくしをのこして向うへいってしまった。
 わたくしは草原へすわりこんだまま、しばし二人の後姿を見送っていた。
(なんという暢気《のんき》というか、鈍感というか、
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