た。誰も、わたくしの存在に気がつかないのである。わたくしの身体が、彼等に見えないのである。こんな悲しむべき、かつ又恐ろしきことが、またとあるであろうか。
それからわたくしは、戸山ッ原の草のうえに、一時間あまりも転がって、ひとりで煩悶《はんもん》をつづけた。そのうちに、月が雲の中に入って、あたりも暗くなったので、わたくしは立ちあがって、自分のアパートへ帰ってきたのである。そして鍵をまわして、自室に入り、寝床の中にもぐりこんだ。そして朝まで睡《ねむ》ってしまった。
その翌朝、元来|暢気《のんき》に生れついたわたくしは、昨夜の恐ろしかりしことどもをついわすれ、起きるとそのまま歯みがき道具と手拭とをさげて、洗面所へいった。
「やあ、今ごろ起きたのか。ばかにゆっくりだね」
と、わたくしは声をかけられた。
わたくしは、その途端に、はっと思った。声をかけてくれたのは、同じアパートの住人にして草分《くさわけ》をもって聞える藤田という大道人相見の先生だった。
「……」
「なんだい、その顔は。鼠が鏡餅の下敷きになったような当惑顔をしているじゃないか」
藤田師は、例によって辛辣《しんらつ》なことばを、なげつける。わたくしは、そのとき、咽喉のところまで出てきたことば――藤田さん、わたくしが見えるかね、わたくしの身体が――と聞きたいのを懸命に我慢した。そしてわたくしは、自分の背後をふりかえってみたのであった。それはもしや藤田師が、わたくしの後に立っている他の者に対して、話しかけたのではないかを知るためだった。
その結果、わたくしは、初めて、大安心をすることができた。わたくしの後には誰もいなかった。廊下は、奥の方まで素通《すどお》しで、猫一匹、そこにはいなかった。
「やあ、藤田さん。ゆうべは、だいぶん儲《もう》けたらしく、機嫌がいいね。はははは」
と、わたくしは、初めて笑いごえを立てた。
「うふ、ゆうべだけじゃないよ。このごろは、亡者《もうじゃ》ども、一般に金まわりがよいと見えて、見料の外にチップを置いていくよ。呆《あき》れた時勢だな。はッはッはッはッ」
藤田師の笑い声は、わたくしにとって、千両万両の値打があった。わたくしの身体は、たしかに見えるのである。その証明が、この藤田師によって、りっぱに立ったのである。わたくしは、天にものぼらんばかりの巨大なる悦《よろこ》びを感じた次第
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