えした。
 こんなことが三回続けられた。そして、老師の持てる盃は、一回毎に重くなり、そして三回目には、穴の入口まで酒が上ってきた。もうこの上は入らない。
 やがて朝餐《ちょうさん》は終った。
「仲々いい庭園じゃろうが。ちと散歩をしてきたらどうじゃ」
「はい。では老師先生」
 金博士は、日頃のつむじまがりもどこへやら、まるで人がちがったように師の前には従順となり、庭園へ出た。
「老師は、いらっしゃらないので……」
「ああ、わしはちょっとソノ……食事のあとで用を達《た》すことがあるので、そちだけでいってくれ」
「は。では、散歩をして参りましょう」
 金博士は、石段づたいに芝地《しばち》に下り、そして正確なる歩速でもって、向うの方へ歩いていった。
「老師、うまくいったようですな」
 卓子《テーブル》の下から、醤があの長いへちまのような額《ひたい》をぬっと出した。
「叱《し》ッ。ボーイが、こっちを向いている。いやよろしい、窓の方を向いた。……いや、醤どの、うまくいったよ。あの無類の毒酒《どくしゅ》を、まんまと三杯も乾《ほ》してしまったよ。致死量《ちしりょう》の十二倍はある。あと十五分で、金博士の死骸《しがい》が庭園に転がるだろうから、お前の部下に手配をして、早いところ取片づけるように」
「そうですか。あと十五分ですか。それは大成功だ」
「やれやれ、醤どののためとはいえ、殺生《せっしょう》なことをしてしまったわい」
 王老師は、ちょっと後味《あとあじ》のわるさに不機嫌な表情をつくった。
 醤は、もう話はすんだと、卓子《テーブル》の下から脱兎《だっと》のようにとびだすと、部下のつめている部屋へとんでいって、金博士の死骸の取片づけ方を命令した。やれやれこれで、あの恐るべき金博士を始末することが出来たかと、醤買石は、鼻の横に深い皺《しわ》をつくって、大満悦《だいまんえつ》であった。


     4


 それから二時間ばかり経った。
 食堂の隅の卓子《テーブル》に、醤と王老師とが向いあい、額をあつめて、何か喋っている。さっきとはちがい、二人の顔付は、共にすこぶるいらいらしているように見えた。
「王老師、ことごとく失敗ですぞ。どうしてくださる」
「どうしてくださるといって、どうも不思議という外ない」
「余はあのように多額の報酬金《ほうしゅうきん》を老師に支払ったのも、当館の始末機関に絶対信頼を置いたればこそです。然《しか》るに況《いわ》んやそれ……」
「当館の始末機関は絶対に信頼し得るものじゃったのじゃ、すくなくとも昨日までのところは……。しかしあの金博士に限り効目《ききめ》がないので呆《あき》れている。察するところ、金博士のあの素晴らしい食慾が、一切を阻《はば》んでいるのかもしれん」
「食慾なんかに関係があるもんですか。あの毒酒にしても毒蛇にしても、インチキじゃないかな」
「そんなことはない。あの毒酒では、過去において千七百十九名の者が斃《たお》れ、毒蛇では百九十三名が斃れ、いずれも百パーセントの成功を見たのじゃ。殊《こと》にあの毒蛇に咬《か》まれた者のあのものすごい苦しみ方に至っては……」
「それは余も一度見たことがありますが、実に顔を背《そむ》けずにはいられなかったです。その毒蛇と今日の毒蛇と、毒性は同じものですかね」
「毒性に至っては、今日のやつは、特別激しいものを選んだのだ。しかも今日のやつは、非常に獰猛《どうもう》で、人を見たら弾丸のように飛んでいって咬みつくという攻撃精神に燃え立っている攻撃隊員というところを五匹ばかり選《え》り抜《ぬ》いたので、それで相手が斃れないという法はないのじゃ。不思議という外《ほか》ない」
「ですが、わが部下の話では、その突撃隊の毒蛇が、金博士の腕と足とにきりきりと巻きついたのを双眼鏡でもって確《たしか》めたというとるですが、博士は別に痛そうな顔もせず、銅像のように厳然《げんぜん》と立っていたそうですぞ。本当に突撃隊ですかなあ」
「すぐとんでいってきりきり巻きつくところから見ても、それが突撃隊員だということが分る。その毒蛇が人語《じんご》を喋《しゃべ》ることが出来れば、もっと詳《くわ》しいことが分るのじゃが……」
 話の最中に、醤の部下が、庭の方からあわただしく食堂の中にとびこんできた。
「委員長。たいへんです。金博士が、只今これへ現れます」
「え、こっちへ金博士が……」
「あ、あの足音がそうです」
 ずしんずしんといやに底ひびきのする足音が聞える。醤は、泡《あわ》をくっているうちに、逃げ場を失い、またもや卓子《テーブル》の下にごそごそと匐《は》い込んだ。
 卓子のシーツの裾《すそ》が、まだゆらゆら揺《ゆ》れている最中《さいちゅう》に、金博士がぬっと入って来た。どうしたわけか、金博士は、頭の上から肩のへんにひどく泥を被《かぶ》っていた。
「やあ、金どのか。一杯どうじゃ」
 王老師も、ちょっとおどろいて、前にあった盃をとって差し出した。
「いや、酒はもうたくさんですわい」
 と金博士が、落付いた声でいった。
 うむと呻《うな》った老師は、のみかけの酒を食道《しょくどう》の代りに気管《きかん》の方へ送って、はげしく咳《せ》き込んだ。
「いや、老師先生。ここの酒は、あまり感心しませんなあ」
「そ、そんなはずは……ごほん、ごほん」
「どうも、感心できませんや、砒素《ひそ》の入っている合成酒《ごうせいしゅ》はねえ。口あたりはいいが、呑《の》むと胃袋の内壁《ないへき》に銀鏡《ぎんきょう》で出来て、いつまでももたれていけません」
「ま、真逆《まさか》ね」
「本当ですよ。気持がわるくなって、庭園を歩いていましたが、ふしぎなことにぶつかりました」
「ふしぎなことって、それは耳よりな、どうしたのかね」
「この庭園には、冬だというのに、蛇が出てくるんですよ」
「ああ一件の……いや、二メートルの蛇か」
「二メートルもありませんでしたが、頤《あご》のふくれた猛毒をもった蛇です。トニメレスルス・エレガンスに似ていますが、それよりもすこし長くて九十五センチぐらいありました」
「それはたいへん。君に咬《か》みつかなかったか」
「すこしは咬みついたらしいですが、私は感じがにぶいのでねえ。ですが、脚だの腕だのにきりきり巻きついて歩くのに邪魔をしますので、癪《しゃく》にさわって、補えて来ました。ほらこれです」
 金博士は、ぬっと右手をさしだした。その手には、例の蛇が四五匹、ぶらりと下っていた。
「うわッ」
 王老師は、おどろいて、椅子に腰かけたまま、うんと呻《うな》って目をまわした。
「ああ、老師は蛇はお嫌《きら》いでしたか。これは失礼。では取り捨てましょう」
 と、博士は手にしていた蛇を、卓子《テーブル》の下へ、そっと捨てた。
 すると、卓子の下で、
「きゃッ」
 と、只ならぬ悲鳴が聞えたと思ったら、卓子が華々《はなばな》しく持ち上り、中から一人の真青《まっさお》な皮膚をもった人間がとびだしたかと思うと、衝立《ついたて》をぶっ倒して、料理場へ逃げこんでしまった。それこそ余人《よじん》ならず醤買石だったことは、今ここに改めて申すまでもなかろう。


     5


「王老師。あんな手ぬるいことでは、最早《もはや》だめですぞ」
 醤は、老師に詰めよっている。
 老師は眉をあげ、卓子をどすんと打った。
「まあそう焦《あ》せるな。あの手この手と、まだやることはたくさんある」
「この上、金の奴に一分間でも余計に生きていられては、余《よ》の面目《めんもく》にかかわる」
「さわぐな。いよいよ今日は彼を貴賓《きひん》の間に入れることにしたから、こんどは大丈夫だ」
「ああ貴賓の間ですか。それは素敵だ。見たいですな、中の様子を……」
「見たいなら、見せるよ。こっちへ来なさい、テレビジョン器械をのぞけば、貴賓室の模様は、手にとるように分る」
「おお、それはいい」
 王老師に案内されて、醤はテレビジョン室に入った。高圧変圧器《こうあつへんあつき》がうーんと呻《うな》り、室内が真暗《まっくら》になると、ブラウン管の丸いお尻が蛍《ほたる》のように光りだして、やがてその上に、貴賓室の内部がありありとうつりだした。
「ほら見ろ。何も知らず、金博士のやつ、今入ってきたわ」
 博士は入口の扉をあけて、部屋の中へ入った。そして扉のハンドルを押して、扉をしめた。
 とたんに、高声器から、だだだだンと、はげしい機関銃の音が聞え、画面で見ていると、扉と向いあった壁から濠々《もうもう》と[#「濠々《もうもう》と」はママ]煙が出て来た。要《よう》するに、それは扉をしめる拍子《ひょうし》に自動式にそこを狙って前の壁の中に仕掛けてある機関銃が一聯の猛射を行《や》ったものである。これが普通の人間なら、まだ扉のハンドルを外《はず》さないうちに、背中から腰部《ようぶ》へかけて、蜂の巣のように銃弾の穴があけられること間違いがないのであったが、金博士には、それが一向筋道どおり搬《はこ》ばない。博士は、平気な顔で、ちょっと自分の尻をがさがさとかいただけであった。
 この光景を見て、醤は怒り、王老師はなげいた。
「王老師、あれは弾丸《たま》ぬきの機関銃を撃ったのですかい」
「おお醤どの。ふしぎという外《ほか》ない。しかしまだあの部屋には、かずかずの始末道具《しまつどうぐ》があるから、まだ失望《しつぼう》するのは早い」
 室内の金博士は、のっそりと、シャンデリアの下に立った。すると、矢庭《やにわ》にそのシャンデリアがどっと音をたてて、金博士の頭の上に落ちてきた。金博士の頭蓋骨《ずがいこつ》は粉砕《ふんさい》せられ、こんどこそ息の根がとまったろうと思われたが、あにはからんや、粉砕したのはシャンデリアだけであった。博士は相変らず、銅像のように部屋の真中《まんなか》に突立《つった》って居り、そして、首にかかったシャンデリアの枠《わく》を、面倒くさそうに外して床の上に放りだしただけであった。
「王老師。見ましたか。あれではシャンデリアが饅頭《まんじゅう》の皮で出来ているとしか思えないですぞ」
「ばかいわっしゃい。あの落ちた音で分るが、大した重さのものだ。ほほ、注意、博士が椅子に坐るぞ」
「椅子に坐ることが、何か重大なる意味があるのですか」
「まあ、黙って見ていりゃ分る」
 金博士は、散乱した硝子《ガラス》の砕片《さいへん》を平気で踏んで、窓際に置かれてある安楽椅子に腰を下ろそうとして、椅子に手をかけた。
「ほら、腰をかけるぞ」
 金博士がその安楽椅子の上に腰を下ろすのが眺められた。とたんに、あーら不思議、博士の身体はぶーんと呻《うな》りを生《しょう》じて空間を飛び、大きな音をたてて壁にぶつかった。
「ほら、あれを見たか。あれが、叩きつける“椅子”じゃ。あれでは硬い壁に叩きつけられて、生身《なまみ》の人間は一たまりもあるまい。可哀《かわい》そうに死んだか」
「王老師、壁に穴があきましたよ。人体《じんたい》の形をした穴です」
「何じゃ」
「そして金の奴の姿が見えませんぞ。あっ、あの穴から、部屋の中をのぞいています。王老師、金は自分の身体で壁をぶちぬき、無事に廊下にとびだして、部屋の中をじろじろみているのですよ。可哀そうに死んだかも何もあるものですか」
「ふーん、これは想像に絶して、あの金博士め、手硬《てごわ》い奴じゃ」
 この某国大使館の、いろいろある始末機関をそれからそれへと動員して使ってみたが、どういうわけか、たった一人の博士を片附《かたづ》けることは仲々|容易《ようい》に成功しなかった。
「王老師、どうしてくれる」
「待て、せっかちな!」
 今や醤買石と王老師の間柄は、湯気《ゆげ》の出るほど切迫《せっぱく》していた。
「もう一つ、やってみることがある。これなら、きっとうまくいく」
「どうだかなあ、信用は出来ん」
「いや、これは確実だ。火薬炉《かやくろ》の中につきおとして密閉《みっぺい》し、電熱のスイッチを入れて、じゅうじゅう焼いてしまうのだ」
「本当にそのとおりいくのなら、大したものだが……
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