いよ」
艇長が注意をした。
「ああ、そうそう。それをすっかりわすれていた」
三郎は、やっと気がついた。そして彼の触角を、艇長の触角の方へもっていきながら、
「ええ、たいへん失礼ですが、艇長の触角にさわらせていただきます。あのう、艇長、今まできこえていた声が、急にきこえなくなったので、おどろいたのです」
と、目をくるくるうごかしていうと、艇長の目が兜の中で笑って、
「さっき、わしが号令をかけて、窓をあけさせたのは知っているね」
「ええ、知っていますよ」
三郎は、自分の触角を艇長の触角からはずすまいと、一生けんめいに首をつきだしている。首の骨がいたい。
「窓をあけると、わが噴行艇の中の空気は、一せいに外へながれだして、艇内に空気がなくなったのだ。音は空気の波だから、空気がなくなれば、音は急にきこえなくなったのだ。それくらいのことは、お前にもわかるじゃろう」
「ははあ、なるほど」
噴行艇のそとには、空気がすこしもないのである。だから窓をあけると、空気はどっと外へにげて、ひろがってしまったのである。音がきこえなくなったのは、このわけであるか。三郎はそのわけがやっとのみこめた。
「艇夫。そこの窓から、下をのぞいてみるがいい。これから着陸しようとする月の陸地が見えているよ。しかし、おどろかないがいいぞ」
と、丸い窓を指さして、艇長はいった。
月の引力
(おどろいては、いけない)
艇長は、そういったが、三郎はそんなにいちいちおどろいていてはしようがないと思った。なに、おどろくものか、と度胸《どきょう》をすえて、窓から下を見おろした。
「あっ!」
だが、やっぱり三郎はおどろきのこえをあげた。なんという怪奇な月世界の風景であろう。
飛んでいく噴行艇の下は、まっくらであったが、それからずっと向こうの方を見ると、これはまたまぶしいまでに光る銀色の大きな陸地があった。
よく見ると、その光る陸地は、けわしい山々が肩をならべて、そびえている。山の端《はし》が光って、その後は墨《すみ》でぬりつぶしたように、まっ黒な山脈が手前の方にあった。それより向こうの山脈は、全体がまぶしく光っていた。その間に、明るいひろびろとした原が見えていた。山脈の多くは、環《わ》のようにつらなって、まん中が低くおちこんでいた。まるで爆弾をおとしたあとのように見えた。
光る陸地は、帯のように、左右へ長々とのびてつづいていた。ちょっと見ると、月の世界は光の帯のように見えるのであった。月は丸いものと思っていたのに、これはふしぎな見え方をするものである。
しかし、よく気をつけてみると、噴行艇のま下にある黒いところは、やはり月の陸地であった。空も黒いけれど、そこには、たくさんの星が、きらきらとうつくしくかがやいていた。しかるに、噴行艇のま下は、黒いだけで、星は見えなかった。星は見えない黒い塊《かたまり》こそ、月の陸地であった。
まぶしい光の帯に見えるところには、太陽の光があたっているのであった。太陽のあたらないところは、墨でぬりつぶしたように、真黒であった。これが地球であると、昼と夜との境の陸地はうすぼんやりとあかるく見えるのであるが、それは空気があるため、太陽の光がちらばって、うすぼんやりあかるく見えるのであった。しかし月には空気がない。だから、太陽のあたるところはあかるく、あたらぬところはまっくらで、その境目は、たいへんはっきりしている。昼と夜としかないのが月の世界であった。暁《あかつき》だの夕暮だのぼんやりと明るいときはない。
だから月の世界は、あれはてたように見える。やわらかさがない。死の世界である。けものもすんでいなければ、虫もとんでいない。花もなければ、木も生えていない。
「ああ、なんというさびしい月の世界であろう」
三郎は思わず、ため息をついた。
ただ心地よいのは、わが噴行艇が、光の尾をひいて、いさましくとんでいることであった。噴行艇は生きている。ま下の月の世界は死んでいるのだ!
三郎は、とうとう窓から、身体をひいた。あまり荒れはてた月の世界の光景をながく見ていると、気がへんになってくるのだった。
三郎が妙な顔をしていると、そこへ艇長がやってきて、触角をさしだした。
三郎も、こんどは心得て、触角をさし出した。艇長が何か話してくれるのであろう。
「どうだ。月の世界が、はっきり見えたろう。すさまじいところなので、びっくりしたろう」
三郎は、うなずいた。
「光っている陸地が見えたろう。『笑いの海』は、あの中にある。もうすぐ着陸だ」
「ああ艇長。『笑いの海』というと、月の世界に、海があるのですか」
「ほんとうの海ではないよ。月には水がない。だから海どころか、小川も水たまりもない」
「じゃあ、いよいよへんですね、『笑いの海』だなんて……」
「それは、こうだよ。地球のうえから月を見ると、黒ずんだところがある。その黒ずんだところが、ちょうど海のように見えるので、それで『海』というのだ。『笑いの海』というのが、つまりは、岩でできた平原なんだ。降りてみれば、よくわかるがね」
「はあ、そうですか。『笑いの海』の『笑い』というのは、どんなことですか」
「それは地名だよ。伊勢湾《いせわん》の伊勢と同じことだよ。しかし一説に『笑いの海』の黒ずんだ形がなんとなく笑っている人間の横顔みたいだから、それで笑いの海というのだと説く人もある」
「へえ、笑っている人間の横顔ですって」
三郎は、また窓から、月の世界をのぞいた。
「ほら、あそこだ。一番高い山の左をごらん。まだ形がはっきりしないが、あの黒いところが『笑いの海』だ。笑っている人間の、鼻だの口だの頬だの、あたりが見えている」
「ああ、見えます、よく見えます」
三郎には、艇長のいったとおりの、月の面にはいっている笑いの顔の一部が見えた。
そういううちに、噴行艇は、月面に対していよいよ高度を下げてきたものと見え、光の帯のように見えていた太陽のあたる月面は、いつのまにやら幅が川のようにひろくなり、それがなお近づいて、ますますひろくなった。やがてそれは、洪水のようにひろがり、噴行艇のま下まで明るくなった。とたんに、魚雷のような形をした噴行艇の影が、くっきりと、月面のうえに落ちて、山脈も岩の平原も、流れるようにずんずんと後へ走っていった。
「着陸用意! 重力装置を反対にしずかに廻せ!」
艇長の号令が、無電にのって出た。
電力装置が、反対に廻りだした。すると、噴行艇の落下速度が喰いとめられた。艇はだんだん高度を下げていきながら、もりあがってくる月面の上に、ふわりと降りた。まるで蒲団《ふとん》のうえに落ちたかのように、しずかに着陸したのであった。ごとんと、たった一回だけ艇はゆれただけでじつに見事な着陸ぶりであった。
噴行艇は、笑いの海に、巨体をよこたえたのであった。
上陸第一歩
笑いの海に着陸すると、艇員たちは、俄《にわか》にいそがしくなった。
号令は、無電をもって、矢《や》つぎ早《ばや》につたえられた。
重い扉が、内側にむかって開かれた。すると、中からはしご[#「はしご」に傍点]が下ろされた。
「艇長、下艇の用意ができました」
「よろしい。わしが月の世界への第一歩をふみだすぞ」
そういって、艇長はやおら大きな宇宙服につつんだ身体をおこし、司令塔から立ち出《い》でた。
その後には、高級艇員たちがつきしたがった。
三郎は、あわてて、皆の間をかけぬけると、艇長のすぐ後に追いついた。
せまい通路をぬけると、出入口がひらいていた。艇長は、ゆうゆうとはしごを下りていく。三郎は、それにつづいた。
はしごを下りきって、三郎は、こわごわ岩原に足を下ろした。
ごつごつした、赤黒い岩原であったが、その上を歩いてみると、思いの外、足ざわりはわるくなかった。たしかに岩の上であるのに、畳の上を歩いているような感じであった。
「おお、このへんに足場をたてるんだな」
艇長は、はや修理のことについて、命令をだしていた。
三郎は、月の大地に立って、はるばるここまで自分たちをはこんでくれた噴行艇の巨体を見上げた。
艇は、うつくしく銀色にかがやいていたが、艇長の指している附近の外廓だけが、すこし焼けたように色がかわっていた。
艇の背中から、宇宙服を着た艇員が四五人、顔を出した。背中からも出てきたのである。
出てきたのは、艇員ばかりではなかった。やがて大きな起重機の鉄桁《てつげた》が、にゅっとあらわれた。
そのころ、噴行艇の横腹には、いくつもの大きな出入口がひらき、そこから、足場用の丸太がたくさん、えいさえいさと引張り出された。艇員たちは、おどろくべき早さでもって、その丸太を組み立てていった。
三郎は、手つだうつもりであったが、むしろじゃまあつかいされた。彼はそれが不服であったが、どうも仕方がない。噴行艇の機械についての知識がないから、じゃまあつかいされても仕方がなかった。
三郎のほかにも、じゃまあつかいされて、ふくれている者があった。それは外でもない、彼と同じく給仕をしている木曾九万一《きそくまいち》少年であった。
この木曾少年と三郎とは、岩原のうえをぶらぶらあるいているうちに、ついに行きあった。お互いに妙な形をしているので、行き合っても、しばらくはお互いに、兜《かぶと》の硝子《ガラス》の中をのぞきこんでいたが、ようやくそれとわかって、二人は手をにぎりあった。それから、お互いの触角をふれあわせるのに手間どった。なれないこととて、急にはうまくいかない。
「かざ……三《さ》ぶ……うした」
などと、きれぎれに、木曾少年のこえがきこえる。
(風間三郎、おい、どうしたい)
といっているのだが、触角がさわったときだけしか、こえがきこえないので、そんな風にきれぎれになるのだった。
でも、ようやく二人の触角は、ぴったりふれあった。
「やあ、三郎。月の世界って、殺風景《さっぷうけい》だね。まるで墓場みたいじゃないか」
「それはそうさ。生物一ぴきいないところだからね」
「しかし、なにかめずらしいものがありそうなものだね。二人で、そのへんを、ぶらぶらしてみないか」
「ああ、いいよ。いまのうちに、ちょっと歩いてくるか」
「さあ、いこう。あそこに見えるすこし高い丘のうえまでいってみよう」
二人は歩きだした。すると、いやにぴょんぴょんと、三段とびをしているように歩けるのであった。
「どうもへんだね。地球の上の歩き心地と、ぜんぜんちがうね」
「これはおもしろいや。歩いているつもりだけれど、ふわりふわりと、とんでいるような感じだね」
二人は、おもしろがって歩いていった。
そのうちに、どうしたわけか、木曾少年がぴったりと足をとどめた。前かがみになって、下をみているのであった。
「どうした、クマちゃん」
三郎は、木曾少年のところへ引きかえした。すると木曾は、岩の上から、そこに落ちていた何かをひろいあげ、目を丸くしている。
「これはなんだろう。ねえ三郎」
木曾のさしだしたものを三郎が見ると、それは缶詰の空き缶のようなものであった。しかしそれは、地球で見る缶詰とはちがって、缶の横には三角だの、火の玉だの、妙な模様がかいてあるものだった。
三郎は、それを見ているうちに、なんだか背筋が、ぞーっと寒くなってくるのだった。
先住生物か
「へんな缶じゃないか」
風間三郎は自分の触角を、木曾九万一の触角におしつけて、そういった。
「えっ、へんな缶だって。どこが、へんなの」
木曾は、どこがへんなのか、のみこめないという顔つきだった。
「クマちゃん、ほら、このへんなしるしをごらんよ」
と、三郎は、缶の胴中にかいてある三角だの火の玉だののしるしを指しながら、
「こんなへんな模様みたいなものを、今まで見たことがないじゃないか」
「なるほど、そういえば、へんな模様だね。なんだか判《はん》じ物《もの》みたいだけれど、だれがこんなものをかいたのかなあ」
「クマちゃん、それよりもねえ、もっとふしぎに思ってい
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