さしていらあ」
 艇夫長は、そういって、拳固《げんこ》のせなかで、赤い団子鼻《だんごばな》をごしごしとこすった。
 ぷう、ぷう、ぷう。
 知らない人がきいたら、このとき豚の仔《こ》がないたのかと思うだろう。しかしそのぷうぷうは豚の仔がないたのではなくて、艇夫長の鼻が鳴ったのであった。鼻をこすると、この奇妙な音がするのであった。
(これは、たいへん。艇夫長のごきげんが、きょうはたいへん悪いぞ!)
 三郎は、あわてて、パンツの中へ足をつきこんだ。あまりあわてたので、パンツの片方へ、足を二本ともつきこんだので、彼は身体の中心をうしなって、どすんと床《ゆか》にたおれた。たおれる拍子《ひょうし》に、そこにあった気密塗料《きみつとりょう》の缶をけとばしてしまった。缶は、横とびにとんで、艇夫長の向《む》こう脛《ずね》に、ごつんといやな音をたてて、ぶつかった。
「こらっ、なにをする」
 艇夫長は、顔をたちまち仁王《におう》さまのように、真ッ赤にして、缶をけりかえそうとした。が、とたんに足をとどめて、床から缶をひろいあげた。
「ああ、もったいないことをやるところだった。この一缶が、おれたちの生命《いのち》をすくうこともあるかもしれないのだからなあ。やい、三郎、気をつけろい。ここは、地球の上じゃない。まるで何もない大宇宙の砂漠なんだから……」
 艇夫長は、缶をそっと床の上において、しずかに、元《もと》の隅《すみ》へおしやった。大宇宙の長旅にある噴行艇の中では、一滴の塗料、一条の糸も、人命にかかわりのある貴重な物質であった。
「おい、三郎。早く飯を食って、交替時間におくれるな。いいかい、小僧」
「へーい」
 艇夫長は、ようやく腹の虫を自分でおさえて、艇夫寝室を出ていった。
 三郎は、ほっとため息をつきながら、すばやく身じたくをし、それから釣床の中を片づけて交替の艇夫がすぐ様《さま》ねられるように用意をした。そして急ぎ足で、小食堂の方へ階段をのぼっていったのだった。
 小食堂には、先におきた艇夫たちと、それから非番の艇夫たちが、卓をかこんで、さかんにぱくついたり、茶をがぶがぶのんだり、それから煙草《たばこ》をぷかぷかふかしたり、まるで場末の小食堂とかわらない風景だった。
 三郎が入っていくと、艇夫たちは、にんまりと眼で笑って、そのまま話をつづけるのだった。三郎は、並べられた朝食に手を出しながら、彼らのいうことを、聞くとはなしに耳をかたむけた。
「……というわけなんだが、なんかいい名前を考えてくれよ」
「そうさなあ。そんなことはわけなしだい。チュウイチてえのはどうだ」
「チュウイチ? どんな字を書くのかね」
「宇宙の宙と、一二三の一よ。つまり宙一というわけだ。お前は、はじめて噴行艇にのって宇宙へのりだしたんだろう。だから、その留守《るす》に生れた子供に宙一とつけるのは、いいじゃないか」
「なるほど、宙一か。よい、いい名前だ。昨夜からおちつかなかったが、これでやっと、気がおちついたぞ」
 と、その艇夫は立ち上る。
「お前、どこへいくんだい」
「知れたことよ。これから無電室へいって、今すぐ家内《かない》のやつを、無電で呼びだしてもらって宙一という名をおしえてやるのさ。説明してやらなくちゃ、うちの家内は、あたまが悪いと来ているから、通じないよ」
「まあ、なんとでもするがいい。ついでに、うちの家内にことづけをして、お前の家内のところへ、子供の誕生の祝物をとどけるようにいってくれ」
「ばかなことをいうな。こっちから、さいそくをする――それではおかしいよ」
「遠慮するようながらでもあるまいに、あははは」
「あははは。とにかくいって来よう」
 艇夫の一人は出ていった。
 あとで仲間の艇夫たちは、顔を見合わせ、
「ああはいったが、すこしは里心《さとごころ》がついているのじゃないかな。つまり、この噴行艇がこんど地球に戻るのは十五年後だから、昨夜生れたあの男の子供が、十五六歳にならなきゃ、わが児《こ》の手が握《にぎ》れないんだからなあ」
「うむ、まあ、そうだ。だが、そんな話はよそうや。こっちまでが、里心がつくからな」
 十五年後だと、艇夫たちが話をしているところをみると、この噴行艇は、これからずいぶん長い行程をとびつづけるものらしい。


   ふしぎな味噌汁《みそしる》


「どうだ、三郎。噴行艇に乗って、一ヶ月たったが、すこしは、気がおちついたか」
 一人の艇夫が、煙草をくわえて、三郎の横に、腰をおろした。それは、三郎と同郷の、神戸《こうべ》生れの艇夫で、鳥原彦吉《とりはらひこきち》という男であった。彼は、やさしい男で、そして艇夫には似あわぬものしりだった。三郎は、彼を、ほんとうの兄のように思っていた。
「ええ、だいぶん、なれましたよ」
 三郎は、缶詰の中から、青豆を
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