、まあお待ち。いいものを見せてあげよう」
 委員長ケレンコは落ちついたもので、ピストルをゆだんなく艇長の胸につきつけながら、左手で扉をどんどんとたたいておしあけた。
 と同時に、扉のかなたで「あっ」というおどろきのこえがした。大勢の艇員を向こうにまわして、にらみあっている一人の大男! その男が顔をくるっとダン艇長の方へまわしたのを見ると、おお、酔っぱらいの暴漢リキーであったではないか。
「あ、リキー」
「そうだ。リキーだよ。艇長さんは、よくおぼえていたね」
「あの酔っぱらいを忘れるやつがあるか」
「そうだ。誰も知っているよ。しかしリキーというのは、およそ彼に似あわしからぬ名だ。おい、ダン艇長さんとやら。あの手におえない男の本名を教えてやろうかね」
「え、なんだって」
「そうおどろかないでもよい。おれの片腕として有名な男。潜水将校リーロフという名を、きいたことがありはしないかね」
「うーむ、リーロフがあの男か!」
 さすがのダン艇長も、そのばけかたのうまさに、どぎもをぬかれたようだった。
 おそろしいおたずね者二人が、いよいよ仮面をぬいで、おもいがけないところからとびだしたのだ。潜水将校リーロフは、ソビエト連邦にその人ありと、外国にまで名のきこえた大技術者だ。ケレンコの方は、いまは太平洋委員長という役にはなっているが、彼は、現代の世界を根こそぎひっくりかえして共産主義の世界にし、あわよくばソ連の独裁官スターリンの地位をうばって、全世界を自分の手ににぎろうとしている、とさえいわれている人物だった。


   悪魔の虜


「さあ、お客さんたちも、艇員どもも、これで様子は万事のみこめたろう。うわっはっはっ」
 酔っぱらいのリキー――ではない潜水将校リーロフは、ピストル両手に、すっかり勝ちほこって、仁王さまのような顔をほころばせてあざ笑った。
「いいかね。これから、ケレンコとおれとが、ダン艇長にかわってこのサウス・クリパー号の指揮権を握ったんだぞ。不服のある奴は、遠慮なくおれの前へ出てこい」
 大男のリーロフは、両手のピストルを、これ見よがしにふりまわしながら、人々をにらみつけた。
 この恐しいけんまくの前に、誰一人あらわれる者もなかった。
 それにしても、気がかりなのは、日東の熱血児太刀川時夫のことではないか。どうしたのか、彼は先ほどからちっとも姿を見せないのだ。一たい何をしているのだ。彼もまた、ケレンコとリーロフの勢いにのまれてしまったのであろうか。
 いまや大飛行艇サウス・クリパー号は、おそるべき共産党員のため、すっかり占領されてしまったようである。
「おい、ダン先生」
 ケレンコはいった。
「これで写真電送の器械も役にたたなくなったし、無電装置もこわれて、外との無電連絡は一さいだめになった。そこでこんどは、この艇の操縦室へ行く番となった。さあ案内しろ」
「私がか」
「そうだ。君は人質なんだ」
 ダン艇長はいわれる通りにするほかはなかった。
 艇内にある武器は、潜水将校リーロフがすっかりおさえてしまった。艇員たちが、ひそかにポケットにかくしもったピストルも、みなリーロフにまきあげられてしまったうえ、頤《あご》がはずれそうなほどつよく頬をぶんなぐられた。乗客たちも、一応しらべられたが、この方は、ほとんど武器を持っていなかった。
「おや、四十九番と五十番との席があいているじゃないか。ここの二人の客はどこへいった」
 とつぜん大男のリーロフが、眼をむいた。
「さあ。存じませんねえ」
 リーロフのお伴をしている艇員が、首をふった。
「じゃ、乗客名簿を出せ。四十九番と五十番とは誰と誰か」
 リーロフは艇員の手から名簿をひったくり、太い指さきで番号をたどった。
「うむ、四十九番は石福海。五十番は太刀川時夫。ははあ、そうか。あいつは日本人だったのか。ふふん、うまく逃げたつもりらしいが、なあに今にみろ。素裸《すはだか》にひきむいて、あらしの大海原へおっぽりだしてやるから」
 リーロフは、ゴリラのように歯をむいてつぶやいた。
 一方、ケレンコ委員長は、ダン艇長をひったてて、操縦室へのりこんだ。
 操縦室は、一面に計器がならんでいた。そしていろいろな操縦桿やハンドルがとりつけてあった。そこには五人の艇員が座席について、熱心に計器のうえを見ながら、操縦をしたりエンジンの運転状態を見たり、航路を記録したり、いそがしそうにたち働いていた。
 だが、ケレンコがはいっていったとき、五人の操縦員の顔は、いずれも紙のように白かった。彼等はすでに、艇内におこった大事件を知っていたのである。
「おい、皆。わがはいが、ただ今からダン艇長にかわって、この飛行艇の指揮をとることになった。わがはいの、いうことをきかない者は、たちどころに射殺する。いいかね、命のおしい奴は、命令にしたがえ」
 それを聞くと、五人の操縦員は、いいあわせたように、ぶるぶると体をふるわせた。


   無茶な命令


「そこでわがはいは、本艇の航路をしめす。地図を出せ」
 ケレンコはいった。
「地図は、ここにある」
 ダン艇長が、壁を指さした。航空用の世界地図が、はりつけてあった。そのうえには、赤や青やの鉛筆で、これまで通ってきた航路やなにかがしるされていた。
「ふん、これか。なるほど本艇はいま、ここにいるのだな。しめた。マニラからよほど北にそれているのだな」
「外はひどい暴風雨です。だから北へ避けているのです」
 操縦長スミスが、ひきつったような声でこたえた。
「本艇の針路を、もうすこし北へまげろ。もう二十度北へ」
「え、もう二十度も北へですって」
 操縦長スミスはおどろきの声をはなち、
「それじゃあんまりです。マニラへはいよいよ遠ざかり、太平洋のまん中へとびこんでゆくことになります」
「わかっている。いいから、わがはいの、いうようにするんだ。君は命令にそむく気じゃあるまいな」
「でも、そっちへ行けば、マニラへひきかえすだけの燃料がありません。海の中におちてしまっていいのですか」
「だまって、わがはいの、いうとおりにしろ。それから、スピードをあげるんだ。いまは毎時二百キロしかでていないようだが、それを三百五十キロにあげろ」
 ケレンコは、どうするつもりか、途方もないことをいい出した。
「え、三百五十キロ? この暴風雨の中に、三百五十キロ出せとおっしゃるのですか。そ、そんなことはできません。そんなことをすると、飛行艇のスピードと暴風の力とがかみあって、艇がこわれてしまいます」
 スミス操縦長は、きっぱりとケレンコの命令をことわった。
「なに、できないって」
 ケレンコの眼が、ぎらぎら光った。
「よし、できないというのなら、貴様に用はない。覚悟しろ」
 パーン!
「あ!」
 スミス操縦長の頬をかすめて、銃弾はとんだ。その銃弾は銀色をした壁をうちぬき、艇外にとび出した。とたんに、その穴から、しゅうしゅうと、はげしい風がながれこんできた。
 スミス操縦長の頬からは、鮮血がぽたぽたとながれおちる。かれは決心したもののごとく、また計器をにらみながら一心に操縦桿をひく。彼もアメリカ魂をもつ勇士の一人だったのである。
「もう一度いう。針路を北へもう二十度。そしてスピードを三百五十に!」
 ケレンコは、スミス操縦長に噛みつきそうな形相でさけんだ。
「わ、わかりました。そのとおりやります!」
 スミスは、唇をぶるぶるとふるわせながら、きっぱりこたえた。
「ああ!」
 ダン艇長は、その横で、絶望のため息をついた。
(これでは陸地へは、だんだん遠ざかる。そしてもしこの飛行艇がこわれたら)
 艇員の身の上を、そしてまたあずかっている乗客たちのことを心配して、艇長の胸のうちは煮えくりかえるようであった。
 助けをもとめたいにも、無電はこわれてしまった。それに他の飛行機か汽船でも通っていればいいが、こんな暴風雨地帯を誰がこのんで通っているものか。たとえ通りかかっていたにしろ、暴風雨警報をきいて、すばやく安全地帯へにげてしまったろう。
(神よ、われ等に救いをたれたまえ!)
 ダン艇長は、心の中に、神の名をよんだ。
 艇内は、にわかにエンジンの音が高くなった。それはまるで金鎚で空缶をたたくようなやかましい音だった。今にも艇が、どかんと爆破するのではないか、とおもわれるようなものすごい音であった。――スミス操縦長は、ついにケレンコの命令どおりに、暴風雨中に三百五十キロの高スピードを出したのだった。
「ああ、これでいい。こりゃ、愉快だ!」
 どういうつもりか、計器の針をながめて、ひとりよろこんでいるのは、おそるべき委員長ケレンコであった。
 他の者は、誰の顔も血の気がなかった。
 しゅうしゅうと風が穴から、はげしくふきこむ。ごうごう、がんがんとエンジンはなりつづける。これでは、まるで地獄ゆきの釜のなかのようなものだ。艇員たちは、それぞれ神の名をよびつづけていた。
 そのときだった。入口から、おもいがけなく、一人の青年の姿があらわれた。
「やあ皆さん、ちょっと失礼しますよ」
「おお、あなたは――」
 ダン艇長は目をみはった。
 その青年は、ほかならぬ太刀川時夫であった。今まで彼はどこにいたのであろうか。右手にはあの太いステッキが握られている。だが、ふしぎなことには、彼の顔は、どうながめても、このさわぎを少しも感ぜざるものの如く落ちつきはらっていた。
「やあ皆さん。乗客の一人として、ちょっと御注意いたしますが、この飛行艇はついに運転不能となりましたよ」


   命の方向舵


 今まで見えなかった太刀川青年が、とつぜんあらわれて、こんなことをいったものだから、操縦員も艇長も、そしてケレンコも、めんくらって目をぱちくりとした。
「え、どうしてそんなことが――」
「いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ」
 太刀川時夫は、平気な口調でいった。
「あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ」
「このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう」
 そういっているとき、どうしたわけか、操縦室の電灯が一時にぱっと消えてしまった。外は、夜のように暗い黒雲の渦だ。室内はくらくなった。ただその中に、蛍光色の計器の表だけがぴかりぴかりと光る。
「あ、たいへんなときに停電だ」
「こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ」
 委員長ケレンコも、あわて気味に一同をおどかした。
「電灯をつけなきゃいかんですが、困りましたね」
 太刀川青年の、おちつきはらったこえが、くらがりの中からした。
 そのさわぎのうちに入口から、小さい猿のような動物が、するすると室内に入ってきたのに、気づいた者はほとんどなかったようである。
「電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ」
「はい。では発電室へいってみます」
 しめたと思ったダン艇長が、くらがりの中に体をうごかしたとたん、
「こら、この室を出ていっちゃならん。この室に、艇内電話機があるはずじゃないか」
 とケレンコのわれ鐘のような声。
「電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……」
「なんでもいいから、かけてみろ」
「はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば」
「大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる」
 ケレンコは、ピストルをポケットにおしこみ、他のポケットをさぐって、懐中電灯をとりだした。
 それはただちにケレンコの手から、ダン艇長の手にわたされた。釦《ボタン》をおす。まぶしい光がさっと室内に流れた。
「ああ、ここにあった」
 艇長は、電灯を片手にもちながら、
「ああもしもし」
 と、電話をかけはじめた。
「おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?――」
「こら、他の話をしち
前へ 次へ
全20ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング