鼻さきに、中国少年の汚れた顔があった。
「ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね」
「小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へ向《むき》をかえたよ」
「はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね」
「おれの名かい」
「そうだ」
「石福海《せきふくかい》というのだ。こういう字を書くんだよ」
 少年は、掌のうえに、指さきで文字をかいてみせた。
「なるほど石福海か。福海にしては、ちとみすぼらしい福海だね」
 その時であった。少年は太刀川の脇腹をぐっと突いた。
「小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ」
「えっ」
 彼は、顔をあげて、室の出入口を眺めた。出入口の扉を押して、ケント老夫人が出てゆくところだった。酔っぱらいのリキーを座席にのこしたまま!……


   電送写真


(変なことをいう少年だ)
 太刀川は、ふしぎに思った。
「お前は、何をいうんだ。今出ていったのは、お婆さんじゃないか。お前は目が見えないわけじゃなかろう」
「そうなんだよ、小父さん」
「何だって」
「おれは目がわるくて、目の前ほんの一、二|米《メートル》ぐらいしかはっきり見えないんだよ」
「ほほう。そうか。そんなに悪い目をしていて、出入口を通る人をあてるなんて、おかしいじゃないか。はははは」
 ところが、少年は至極まじめだった。
「ちがうよ。そんなことは、目でみなくたって、おれには、ちゃんと分かるんだよ」
「なに、目でみないでも分かるって、馬鹿なことをいうものでない。いいからもうだまっておいで」
 太刀川は、石少年が透視術みたいなことをいうので、ちょっと気味が悪かった。だが、ケント老夫人のことを男だなんて、そんな当りの悪い透視術は、もうたくさんだとおもった。
 だが、はたして彼の考えた如く、石少年の言葉はまちがっていたであろうか?
 無電室では、四人の係員たちが、器械の前にすわりこんで、耳にかけた受話器の中に相手無電局の電波を、しきりに探しもとめている。
 天候状態は、つづいて悪かった。
 そこへダン艇長が、顔をこわばらして入ってきた。
「どうだ。まだ入らないか」
「マニラはやっと入りました。しかしニューヨークの本社が、さっき入りかけて、また聞えなくなってしまいました」
 通信長が答えた。
「マニラの気象通報は、どうだった」
「あっちも、悪いそうです。北々西の風、風速二十メートルだといってました」
「そうか」
 艇長は、それだけいって唇をかんだ。
 その時、一番奥の器械の前についていた通信士が、両耳受話器に手をかけながら、こっちをふりむいた。
「通信長。ニューヨーク本社が出ました」
「なに、本社が出た。それはお手柄だ」
 通信長は、竹竿をつないだような細い体を曲げて、奥へとんでいった。そして別の受話器を耳にかけた。
「はあ、はあ、ダン艇長がいま出ます」
「おお、本社が出たか」
 ダン艇長の頬に血の色が出た。
「ああ本社ですか」
 艇長の声は、上ずっていた。
「なに、専務ですか。いや、しばらくでした。ところで、例の二人組の共産党員ですがね、こっちじゃ分からなくって困っています。これにのりこんだことは、たしかなのでしょうね」
 しばらく艇長の声がとぎれた。
「ははあ、そうですか。すると、たしかに乗っているわけですね。では、そっちにその二人の人相書かなんかありませんか。ええ、何ですって。写真、それは素敵です。では、すぐその写真を電送して下さい。こっちの用意をさせますから」
 艇長は、まっ赤に興奮している。
「おい、写真電送で、二人の顔を送ってくる。すぐ受ける用意をしたまえ」
「はい」
 通信士は、スイッチをひねって、写真電送のドラムを起動した。このドラムの中に、薬品をぬった紙が入っていて、向こうから送る電波によって、一枚の写真が焼きつけられるのだ。
「は、用意ができました」
「もしもし、本社ですか。用意ができました。写真をすぐに送ってください」
 まもなくジイジイジイと、写真を焼きつけるための信号が入ってきた。もうあと十分たてば、写真は出来あがるのである。ケレンコの顔もリーロフの顔も、すっかり分かってしまうのだ。
 なんというすばらしい文明の利器であろうか!
 艇長はじめ通信係の一同は、ジイジイジイと廻るドラムの上を、またたきもせず、見つめている。やがてドラムの中に焼きあがる写真は、そもどんな顔をしているであろう。
 一分、二分、三分――誰一人、声をだす者もない。
 その時だった。
 この無電室の入口の扉が、音もなくすーっと細目にあいた。室内の者は、誰も気がつかない。
 その扉の間から、ぬーっと現われたものがある。
 あ、ピストルの銃口だ!
 ピストルの銃口は、しずかに室内の誰かを狙うものの如くぴたりととま
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