、アメリカの自慢のものだった。
 太刀川は、四ツ星漁業会社の出張員という身分証明書で、この飛行艇の切符を買うことができた。
 七月三日、いよいよサウス・クリパー機の出発の日だ。
 太刀川は、朝九時、一般乗客にうちまじり、埠頭からモーター・ボートにのって、飛行艇の繋留《けいりゅう》されているところへ急いだ。
 モーター・ボートが走りだしてから、太刀川はあたりをみまわしたが、まるで人種展覧会のように世界各国の人が乗りこんでいる。アメリカ人イギリス人はいうに及ばず、ドイツ人やイタリヤ人もおれば、インド人、黒人もいる。また顔の黄いろい中国人もいた。日本人は、彼一人らしい。
「ああ痛! ああ痛! 足の骨が折れたかもしれねえぞ。だ、誰だ、俺の足を鉄の棒でぶんなぐったのは」
 太刀川の[#「 太刀川の」は底本では「太刀川の」]耳もとで、破鐘《われがね》のような大声がした。それとともに、ぷーんとはげしい酒くさい息が、彼の鼻をうった。すぐ隣にいた大男の白人が、どなりだしたのであった。ひどく酔っぱらっている。このせまい艇内では、どうなるものでもない。
 太刀川は、面倒だとおもって、酔っぱらい白人の肘でぎゅうぎゅうおされながらも、彼の相手になることを極力さけていた。
「な、なんだなんだ。誰も挨拶しねえな。さては俺を馬鹿にしやがって、甘く見ているんだな。俺ががさつ者だと思って、馬鹿にしてやがるんだろうが、金はうんと持っているぞ、力もつよい。えへへ、りっぱな旦那だ。それを小馬鹿にしやがって――」
「おいリキー。おとなしくしていなよ」
 リキーとよばれたその酔っぱらいの向こう隣に、身なりの立派な白人の老婆がいて、リキーをたしなめた。
「だって、大将――いや、ケント夫人! 俺の足の骨を折ろうとたくらんでいる奴がいるのでがすよ。我慢なりますか」
「おいリキー。あたしは二度いうよ。おとなしくしておいでと」
 この老夫人の言葉は、たいへん利いた。リキーは、ううっと口をもぐもぐさせて、ならぬ堪忍を自分でおししずめている様子だった。リキーには、この老夫人が、苦手らしい。それは多分リキーの主人でもあろうか。
 この老夫人ケントは、たいへん立派な身なりをしていたが、この暑いのに、すっぽりと頭巾をかぶり、そしてよく見ると、顔中やたらに黄いろい粉がなすりつけてあり、また顔中方々に膏薬を貼ってあった。ことに、鼻から上唇にかけて、大きな膏薬がはりつけてあり、そのせいかたいへん低い鼻声しか出せない。太刀川は、ケント夫人が皮膚病をわずらっているのであろうと思った。お金がうんとあっても、病気に悩んでいるらしいこの老夫人に同情の心をもった。
「やや、なんだ、鉄棒かとおもったら、この安もののステッキが、俺の向脛《むこうすね》をぐりぐりぶったたいていたんだ。けしからんステッキだ」
 酔っ払いのリキーが、またどなりだした。そのとたんに、太刀川がついていたステッキが、あっという間につよい力でもぎとられた。リキーは、それを頭上にさしあげた。
「このステッキは、誰のか。俺の向脛を折ろうとしたこのステッキは、一体誰のか。さあ名乗らねえと、あとで見つけて、素っ首をへし折るぞ。ええい、腹が立つ、この無礼なステッキを海のなかへ叩きこんでしまえ」
 リキーは乱暴にも、ステッキを海中へ投げこもうとした。
「待て。それは僕のステッキです」
 太刀川は、さっきから、そのことに気がついていたが、どうしたものかと考え中であった。大任を持つ身の[#「持つ身の」はママ]、こんな小さなことで喧嘩したくはなかったが、原大佐から親しくさずけられた貴重なステッキを奪われ、海中になげこまれたのではもう我慢ができない。
「な、なんだ。貴様のステッキか。じゃ貴様だな、俺の向脛を叩き折ろうとしたのは。さあ、なぜ俺を殺そうとしたか。この野郎、ふざけるな」
「ステッキをかえしてくれたまえ」
「いや、駄目だ。おい放せ。ステッキは捨ててしまう」
「いや、かえしてください」
 太刀川は大男の手からステッキをもぎとった。
 これを海中へ捨てられてなるものか。
「あ痛。うーん、貴様、案外力があるな。よし、それなら決闘を申しこむぞ。俺はこのモーター・ボートが飛行艇につくまでに貴様の息の根をとめにゃ、腹の虫がおさまらないのだ。さあ、来い」
「リキー、およしよ。三度目の注意だよ」
 老夫人が、にがにがしい顔で、リキーの横腹をついた。リキーは、いまや太刀川の頭上に、栄螺《さざえ》のような鉄拳をうちおろそうとしたところだったが、このときうむと唸《うな》って、目を白黒、顔色がさっと蒼ざめて、その場にだらんとなってしまった。
 太刀川は意外な出来事に眼をみはった。彼は、リキーになにもしないのに、伸びてしまった。結局、老夫人ケントがリキーをどうかしたらしいのであるが
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