かれた。
 いよいよ問題の左右の肺臓が、切り放されて、身体の外に置かれた。これは更に入念に縦横に切開され、解剖医の眼はその上にジッと注がれた。
 解剖を見ている者は、誰一人として声を出すものがない。床上に靴の音一つしないのである。なんにも音がしない。なんにも――とは、厳密にはいえないかも知れない。内臓を切り放し、外へ引出すときに、烏賊《いか》の皮をむくときのように、パリパリと音がするのであった。それは内臓を繋《つな》いでいる軟い膜が剥ぎ破られる音であろうと思った。
 腹腔や胸腔の中が、だんだんがら空《あ》きになってきて、内臓は身体の横に、まるで野天の八百屋が、戸板の上にトマトや南瓜《かぼちゃ》や胡瓜《きゅうり》を並べたように、それぞれ一と山盛をなして置きならべられた。僕は不図《ふと》、それ等のものを直視した。すると、俄かに自分の脳髄がグッと掴まれるような感じがした。よくない傾向だ。脳貧血の先触れではないかと思うくらいだ。僕が油断をしたのがいけなかった。もう大丈夫と思って、それまでは張りつめていた心をすこし弛《ゆる》めたのがいけなかった。それで急に頭がフラついてきたのだ。
 医師はなおも胸腔のなかを覗きこみながら、咽喉笛を切り取って、外にだした。それもやっぱり丁寧に切りひらかれた。それがメスの活動の最後だった。
 内臓はすべて体外に出た。胸と腹との中は全く空っぽで、舟のような形になってしまった。少年の屍体は、なんだか寒《さ》む寒《ざ》むと見えた。
 メスを下に置いた医師は、こんどは金属で作った湯呑み茶碗に柄をつけたような柄杓《ひしゃく》を右手に持った。そして助手に合図をした。
 すると助手は、解剖台の下を探し、バケツを取出して、医師に渡した。医師はそれを左の手に受取って、再び屍体の傍に寄った。
 なにをするかと見ていると、医師はその柄杓を、空っぽになった腹腔の中に入れた。そして水をすくうような恰好をして、バケツの中にうつした。ザーッと流れ込んだのは、赤い液体だった。もちろんそれは血液だった。
 医師は血液をすくっては、バケツのなかに明ける。それを永い間くりかえした。柄杓をつけるたびにゴボッという音がする。そしてバケツにそれをあけるたびにサーッという音が聞えた。それは静かな室内に於ける只一つの音響であったためか、嵐のすぎさるような大きい響をたてた。僕は一生懸命に怺えてい
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