部の会議迄には一時間ほどの余裕があった。
「夫人、では一時間だけお伴をしましょう」
「えッ、行って下さる。まア嬉しいわ」夫人は少女のように雀躍《こおど》りしてよろこんだ。「そこに自動車が待たせてありますの、さあ、早く行きましょう」
夫人が左手をあげて相図《あいず》をすると、路傍に眠っていた真黒なパッカードが、ゆらゆらとこちらへ近付いて来た。僕たちの乗った自動車は、真暗な商館街にヘッド・ライトを撒きちらしつつ走って行った。二十五番街へさしかかったとき、警告もなく、もう一台の自動車が、後から追いついて来て、いきなり窓と窓とを向いあわせて並列《へいれつ》疾走《しっそう》をはじめた。僕は腰のあたりに爆弾をうちつけられたような無気味《ぶきみ》な寒気に襲われた。もう三十秒これがつづいたならば僕は運転手を射殺しても、この車から外へ飛び出そうと決心した。
「劉夫人!」
僕は夫人の両手を執《と》って、ひきよせた。恋の抱擁《ほうよう》と見せかけて、夫人をこの危急の際の仮の防禦物《ぼうぎょぶつ》にしなければならなかった。十秒十五秒――。向い合った自動車の窓がスルリと開く。
「呀《あ》ッ」
叫んだのは劉夫人である。夫人は僕からとびのいて背後《うしろ》に隠れようとした。――その窓から現われ出た奇怪な顔。眼も唇も、額も頬もすべて真黒な顔。黒人か、さにあらず、構成派の彫像《ちょうぞう》のような顔の持主は、人間ではなくて、霊魂《れいこん》のない怪物のような感じがした。そのとき夫人の右手が、のびると見る間に、硝子《ガラス》窓越しに、短銃《ピストル》が怪物に向ってうち放された。怪物は真正面から射撃されて、その顔面《がんめん》を粉砕《ふんさい》されたと思いきや、平気な顔をつき出して、
「三十番街を左に曲れ」
と流暢《りゅうちょう》な中国語を発し、驚く僕たちを尻眼にかけて、背後《うしろ》の方へ下って行った。
夫人は、短銃を壊《こわ》れた窓に、なおも覘《ねら》いをつけつづけていた。
「なんでしょう、あの怪物は?」夫人が蒼白《まっさお》な顔をあげて、キッと僕の方を睨《にら》んだ。
「多分、人造人間《ロボット》かも知れませんね」
「人造人間《ロボット》! 人造人間って、ほんとにあるのですか」
「ありますとも。このごろ噂が出ないのは各国で秘密に建造を研究しているからです」
「いまのは、どこの人造人間でしょう」
「さあ、どこでしょうか、もしかすると……」
「もしかすると……」
「運転手、三十番街を左に曲れ。真直《まっすぐ》走ると殺されちまうぞ」僕は圧《お》しつけるように命令した。車はもう三十番街に来ていたので、四《よ》つ角《かど》を急角度に旋回した。その途端《とたん》に、僕たちの車の後に迫っていた高速度のイスパノ・シーサなどの車が数台、三十一番街に滑《すべ》りこんだ。俄然《がぜん》一大爆音が彼等の飛びこんだ方面に起った。僕たちの車の硝子《ガラス》が、護謨《ゴム》毬《まり》をたたきつけたかのようにジジーンと音を立てた。
何事か起ったらしい。この儘《まま》、通りすぎたものか、引きかえしたものか。先刻《さっき》、窓からのぞきこんだ人造人間《ロボット》らしきものは、同志林田が活動を開始したのを語っている。三十一番街の爆発事件も、彼の手で決行されたものに違いない。だがその地点に、そんなに必要な事件を指令した覚えはないので、鳥渡《ちょっと》、事件を解釈するのに見当がつかなかった。これは引返して、様子を見たいものだ、と思ったが、劉夫人は、僕の胸にピッタリ顔をおしつけて離れない。彼女は、なんでも自分の家に連れて行くことばかりを考えているのに違いない。僕は、象牙《ぞうげ》のように真白な夫人の頸筋《くびすじ》に、可憐《かれん》な生毛《うぶげ》の震《ふる》えているのを、何とはなしに見守りながら、この厄介者《やっかいもの》から、どうして巧くのがれたものかと思案《しあん》した。
「止れ《ストップ》! 止れ《ストップ》!」
自動車の前に立ちふさがった数名の兇漢《きょうかん》がある。
「また、出たかな」僕はつぶやいた。夫人はすばやく身を起した。夫人は短銃《ピストル》を握り直したが、僕はなにも持っていなかった。武器を持つのは、いよいよ最後のときに限る。軽率《けいそつ》に武器をとり出すことは、できるだけ避けたい。ことに先程から、劉夫人の敏捷《びんしょう》なる行動に、ひそかに不審をいだいていた僕は、ことさら自分の武器を秘密の隠し場所からとり出すところを夫人に見られたくなかった。自動車の速力がすこし落ちると、兇漢の一人がとびのって、運転台の窓をひらいて、こっちへ顔を向けた。それは、案に相違して、林田でも、又他の同志でもなく、全く知らない中国人の顔だった。
「夫人にお願いがあります。重傷者ができました
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