はない。僕達の特務《とくむ》も、このたびが仕納《しおさ》めだと思うと、湧きあがってくる感傷《かんしょう》をどうすることも出来ないのであろう。
 だが僕は、呼吸《いき》の通《かよ》っている間は、常に大きな希望を持っているのだ。敵が青龍刀《せいりゅうとう》を僕の頭上にふりあげたとしても、僕はその刃《やいば》が落ちて来るまでの僅かな時間にまでも希望を継《つ》ぐことであろう。運さえ悪くなければ、そのとき誰かが窺《うかが》いよって、その敵の胴腹《どうばら》に銃弾《たま》をうちこんでくれるかも知れないのであるから……。
 況《いわ》んや僕等には敵に対して、武器以上の武器がある。そいつは、科学《サイエンス》である。海龍倶楽部の団員やその背後にある政府|筋《すじ》や某大国の黒幕連《くろまくれん》などは、政治手腕はあり、金や権力もあるであろうが、要するに彼等は科学的には失業者に過ぎない。僕等は生活様式や境遇は失業者に違いないが、一度《ひとたび》、ハンマーを握らせ、配電盤《スイッチ・ボード》の前に立たせ、試験管と薬品とを持たせるならば、彼等の度胆《どぎも》を奪うことなどは何でもない。彼等を征服するには、科学が武器である。科学《サイエンス》! 科学《サイエンス》! 彼等の恐怖の標的である科学を以てその心臓を突いてやれ!
 僕はそこに見当をつけて、同志に指令を与えたのだ。扉《ドア》を押して帰って行く林田橋二の後姿が、人造人間《ロボット》のようにガッシリして見えた。

 僕は午前九時になると、いつものように職工服に身を固め、亜細亜《アジア》製鉄所の門をくぐり、常の如く真紅《まっか》にたぎった熔鉄《ようてつ》を、インゴットの中に流しこむ仕事に従事した。焦熱《しょうねつ》地獄《じごく》のような工場の八時間は、僕のような変質者にとって、むしろ快い楽園《らくえん》であった。焼け鉄の酸《す》っぱい匂いにも、機械油の腐りかかった悪臭にも、僕は甘美《かんび》な興奮を唆《そそ》られるのであった。特務機関をつとめる僕にとっては、このカムフラージュの八時間の生活は、休憩時間として作用してくれる。
 夕方の五時になると、製鉄所の門から押し出されて、隠れ家の方へ歩いて行った。一丁ほども行って、十八番館の煉瓦塀《れんがべい》について曲ろうとしたとき、いきなり僕の左腕《さわん》に、グッと重味がかかった。そしてこの頃ではもう嗅《か》ぎなれた妖気《ようき》麝香《じゃこう》のかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温《なまあたたか》い呼吸《いき》づかいがあった。
「井東さん。こんばんワ」
「こんばんは、劉《りゅう》夫人《ふじん》」
「劉夫人と仰有《おっしゃ》らないで……。いじわるサン。絹子《きぬこ》と、なぜ呼んでくださらないの!」
「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃《さくらんぼ》のように上気した、まんまるな顔を一瞥《いちべつ》した。「僕は、あなたの餌食《えじき》になるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士《ナイト》たちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」
「貴方は、すこしも妾《わたし》の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲《く》んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日|泪《なみだ》で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」
「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴《じょうち》の世界に、祖国も、名誉もありますまい」
「貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東《いとう》さん。絹子の命をかけてお願いしてよ」
 このしつっこい色情《しきじょう》夫人《ふじん》には、もう三十日あまりも纏《まと》いつかれていた。僕のような肺病やみのどこがよくて誘われるのであろうかと不審にたえない。しかし神経的に考えてみれば思い当らぬところがないでもないので、それは多分|色道《しきどう》の飽食者《ほうしょくしゃ》である夫人が僕の変質に興味を持っているのであるか、それとも、ひょっとすると、同志林田の指摘したように僕の身辺《しんぺん》を覘《ねら》う一派の傀儡《かいらい》で、古い手だが、色仕掛けというやつかも知れない。もしそうだとすると、この劉夫人は容易に僕から離れては呉《く》れないだろう。だが夫人にあまり附きまとわれては、こっちの仕事が一向にすすまなくなるわけだ。こいつは高飛車《たかびしゃ》に出て、一遍で夫人を追い払うのがいいと思った。幸《さいわ》い、今夜の海龍倶楽
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