わーン。がらがらがらがら。
 家が、大地震のように鳴動《めいどう》した。迫撃砲弾《はくげきほうだん》が、この建物に命中したらしい。もう猶予《ゆうよ》はならない。
「おい、ハンス。もう駄目だ。逃げよう」
 と、私は友を呼んだが、そのときハンスは、黒い筒の一本を抱えたまま、ものもいわず、二階の窓から外へとびおりた。

   ニーナのこえ

 それ以来、私はハンスと、別れ別れになってしまった。
 私も、自分に預けられた一本の黒い筒を小わきにかかえて、階段を下り、裏口から戸外にとびだした。そのときは、空はまっくらであったが、銃声と反対の方へ逃げだして、五分ぐらいたって、後をふりかえると、私たちのすんでいた町は、三ヶ所からはげしい火の手が起っていた。
 砲声は、しきりに、夜の天地をふるわせている。気がつくと、頭上を、曳光弾《えいこうだん》が、ひゅーンと、気味のわるい音をたてながら、通り越して行く。しかもこれから私が逃げようという方角へ、その曳光弾《えいこうだん》はとんでいきつつあることを知ると、さすがの私も、足がすくんでしまうように感じた。
「これは、いけない。ぐずぐずしていると、ドイツ兵にみつかってしまうぞ」
 日本人である私が、ドイツ兵に見つかっても、友邦《ゆうほう》のよしみをもって、大したことがないらしくおもわれるであろうが、今の私の場合は、そうはいかなかった。というのは、当時私たち日本人は、ことごとく、ベルギー国から引揚げてしまったことになっていたのだ。私は、或る事情のため、極秘にこの土地にのこっていたのだ。だから、もしドイツ兵に見つかれば、有無《うむ》をいわさず、敵性《てきせい》ある市民、あるいはスパイとして殺されてしまうであろう。殊《こと》にモール博士から託《たく》されたこの黒い筒などをもっていることなどが発見されれば、さらにいいことはない。
「困った。これは、うまく逃げられそうもなくなったぞ」
 私は、乾いて、やけつくような咽喉の痛みを感じながら、ぜいぜい息を切って、雑草に蔽《おお》われた間道《かんどう》を走った。走ったというよりは、匐《は》いながら駈《か》けだしたのであった。頼む目標は、イルシ段丘《だんきゅう》のうえに点《とも》っている航空灯台が、只一つの目当てだった。その夜、イルシ段丘の灯火が、ドイツ軍の侵入をむかえて、いつものとおり消灯もされずに点《つ》いていたことは、全くふしぎなことでもあった。だが、そのとき私は、こう思った。
「ふん、ドイツ軍のスパイがやった仕事だな。それにちがいない」
 私は、それ以上、うたがいもせずに、どんどんと、灯台の灯を目がけて、前進した。足をとられてごろんごろんと転《ころ》がること数十回、数百回。これでも[#「これでも」はママ]私は、すぐ跳《は》ねおきて、イルシ航空灯台の灯を目あてに、次の前進をつづけるのだった。
 こうして、くるしい前進をつづけ、時間は、はっきり分らないが、約一時間以上かかって、私はようやく、上り坂になった段丘にたどりついたのであった。
 砲声や銃声は、ひっきりなしに、鼓膜《こまく》をうち、脚にひびいてくるが、幸いにも、この段丘附近は、しずまりかえっていた。私は、ほっと、息をついた。ここまで来て、どうやら、戦闘の渦の中から、うまく外《はず》れることができたように感じたからである。私は、にわかに、たえ切れないほどの疲労をおぼえて、そのまま段丘の斜面《しゃめん》に、うつ伏《ぶ》してしまった。
 それから、どれほどの時間が流れたのか、私は、全くおぼえていない。
 私は、しきりに、算術の問題をとこうとして、くるしんでいる夢をみていた。
 そのとき、私は、誰かに呼ばれているような気がした。
「千吉、千吉!」
 ほう、私の名を呼んでいる。
(誰? お母アさん!)
「千吉、千吉!」
 私は、はっと正気《しょうき》に戻った。
「千吉、千吉!」
 私は、その場に、とび起きようとした。
「し、静かにして……」
 その声が、私の耳もとに、ささやいた。そして、私の両肩は、下におしつけられたのであった。
 電灯が、点《つ》いている。そして私は、ふんわりした藁《わら》のうえに寝ている。
「おや。君は、ニーナじゃないか」
 私は、目をみはった。私の傍《そば》についていたのは、ニーナといって、私たちの住んでいたアパートの娘だった。彼女は、小学校の六年生だった。私は、ふしぎな気持になった。私は、ドイツ軍の侵入の夢をみながら、アバートで睡《ねむ》っていたのではなかろうか。
 いや、違う。アパートには、こんな妙な室はなかった。ここの部屋ときたら、まるで工場の物置みたいである。
「あたし、ニーナよ。でも、千吉、うまく気がついてくれて、よかったわね。あたし、千吉はもう、死んでしまうのかと思ったのよ。だって、あた
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