湧いてくる中を例の美しい空色の液体が硝子の器の中に、なみなみと湛《たた》えられた。
「どうです、綺麗なものでしょう。広重《ひろしげ》の描いた美しい空の色と同じでしょう」
 丘署長も田熊氏も感心して見惚《みと》れた。
「なにしろこの液体空気は氷点下百九十度という冷寒なものですから、これに漬《つ》けたものは何でも冷え切って、非常に硬く、そして脆《もろ》くなります。ごらんなさい。これは林檎《りんご》です。これを入れてみましょう」
 技師は赤い林檎を箸の先に突きさして、液体空気の中にズブリと漬けた。ミシミシという音がして、液体空気が奔騰《ほんとう》した。その後で箸を持ち上げると、真赤な林檎が洋盃《コップ》の底から現れたが、空中に出すと忽ち湿気を吸って、表面が真白な氷で蔽《おお》われた。
「さあこの冷え切った林檎は、相当堅くなりましたよ。小さい釘ぐらいなら、この林檎を金槌《かなづち》の代りにして、木の中に打ちこめますよ」
 技師は小さな釘をみつけて、台の上につきさすと、その頭を凍った林檎で槌がわりにコンコンと叩いた。釘は案にたがわず、打たれるたびに台の中へめりこんでいった。見物の一同は、唖然《あぜん》とした。
「さあそこで、こんな堅い林檎ですが、これが如何に脆《もろ》いかお目にかけましょう。ここにハンマーがあります。これで強く殴《なぐ》ってみましょう」
 そういって技師はハンマーをとると、台上の冷凍林檎を睨《にら》んだ。
「エエイッ」
 ポカーンと音がして、ハンマーは見事に林檎を打ち砕いた。あーら不思議、林檎はグチャリとなるかと思いの外、一陣の赤白い霧となって四方に飛び散り跡片もなくなった!


     6


「林檎が消え失せた!」
 と署長が叫んだ。
「イヤ今に見えてきます。ほら、この台の上をごらんなさい。赤い灰のようなものが、だんだん溜《たま》ってくるでしょう。飛び散ったのが、下りてくるのです。――これが粉砕された。林檎の一部です。……」
 丘署長はこのとき棒のように突っ立った。
「ああ判ったぞ。ああ、判ったぞ」
 彼は胸を叩《たた》いて喚《わめ》いた。
「ああ、人間灰事件《にんげんかいじけん》の謎が遂に解けたぞ、七人の犠牲者は、いずれも液体空気の中に漬けられたのだ。そして氷点下百九十度に冷凍され後、金槌かなんかで打ち砕かれ、あの人間灰に変形されたのだ。よオし判った。犯人は確かに、この空気工場の中にいる!」
 そう署長が叫んだとき、卓上の電話がチリンチリンと鳴った。青谷技師がそれを取上げようとするのを、昂奮《こうふん》しきった署長は横から行って、ひったくるように取上げた。
「モシモシ。誰か来て下さい」
 と、上ずった悲鳴が聞えた。
「君は誰だ。名乗り給え」
「ああ、近づいて来る。妻の幽霊だ。助けて呉《く》れッ。ああ、殺されるーッ」
 異様な叫びと共に、電話は切れた、署長の顔は、赤くなったり蒼《あお》くなったりした。電話の主は工場主の声に違いなかった。
「赤沢氏が幽霊に襲われ、救いを求めている。赤沢氏の室へ案内し給え、早く早く」
「えッ、先生がッ。――」
 青谷技師を先登《せんとう》に、署長以下がこれに続いて、室外に飛び出した。階段をいくつか昇って、とうとう特別研究室に駆けつけた。
 扉を開いてみると、居ると思った筈の、赤沢博士の姿はどこにも見えなかった。しかし受話器の外《はず》れた電話機が、床の上に転がっていた。してみると只今の恐怖の電話は、この室から掛けたものに相違ない。博士と幽霊とは一体どこに消えたのだろうか。
 一同は顔を見合わせて、沈黙した。
「オイしっかりしろ署長」と田熊社長が叫んだ。「なんか変な音がするじゃないか」
「変な音?」
 なるほどどこやらから、ピシピシプツプツと、異様な音響が聴えてくるのであった。
「うん、見付けたぞ」
 青谷技師が室の一隅へ飛びこんで行った。そこには青いカーテンが掛けてあった。技師はカーテンをサッと引いた。すると衣装室と見えたカーテンの蔭には、洋服は一着もなかった代りに、白いタンクが現れた。そこにある一つのハンドルに飛びついて、それをグングン右へ廻した。
「それは何だ」と署長が叫んだ。
「これは液体空気のタンクです」と技師は云って、一同の方へ険《けわ》しい眼を向けた。「あなたがた注意をして下さい。その大きな机の後方へ出てくると、生命がありませんよ」
「ナニ、生命がないとは……」
 恐いもの見たさに、一同は首を伸べて、大机の後方を覗《のぞ》きこんだ。
「いま明けてみますから……」
 青谷技師は側《かたわ》らの鉄棒をとって、床の一部を圧した。すると板がクルリと開いて、床の下が見えてきた。床下には普通の洋風浴槽の二倍くらい大きい水槽が現れた。その中を見た一同は、思わず呀《あ》ッといって顔を背《そ
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