電気装置が働いて、室内の空気が、外気と巧みに置換《ちかん》せられているせいだったかも知れない。三重|壁体《へきたい》も完成すると、機械台がいく台も担《かつ》ぎこまれ、そのあとから、一台のトラックが、丁寧な保護枠《ほごわく》をかけた器械類を満載《まんさい》して到着した。若い技師らしい一人が、職工を指揮して三日ばかりで、それ等の器械類をとりつけると、折から、講演先から帰ってきた柿丘秋郎に、委細の説明をしたあとで、挨拶をして引上げて行った。
一体これから此の部屋で、何が始まろうというのだ。
柿丘が呉子さんに説明したところによると、今回協会の奨励金《しょうれいきん》を貰って、旅順《りょじゅん》大学の東京派遣研究班が、主として音響学について研究するということに決定《きま》ったそうで、それには実験室を建てねばならないが、適当な地所が見付からないために、これも社会奉仕の一助として、柿丘は自分の邸内の一部を貸しあたえることにしたそうである。かたがた、柿丘自身も、かねてから、科学というものに大きい憧《あこが》れを持っていたこととて、これを機会に、初等科的な実験から習いはじめるという話だった。
呉子さんは、柿丘の言葉に、これッぱかりの疑惑《ぎわく》もさしはさまなかった。一日のほとんど大部分の時間を、家庭の外で暮す主人を、実験室とはいえ自邸の一隅《いちぐう》にとどめることの出来るのは何となく気強いことだったし、食事についても、何くれとなく情《じょう》の籠《こも》った手料理などをすすめることが出来ることを考えて、大変嬉しく思ったほどだった。
しかし、ありようを言えば、これは柿丘秋郎の奇怪きわまる陰謀にもとづく実験が、軈《やが》て開始されようとするのに外ならなかった。さて其の実験というのは、――
さきに、雪子夫人から威嚇《いかく》されて、堕胎手術をはねつけられた柿丘秋郎は、その後、このことを思いとどまったかのように見せていたが、内心は全く反対で、あの時、夫人の深情《しんじょう》と執拗《しつよう》な計画とを知ったときに、これはどんな犠牲を払っても、堕胎を実行しなければならないと思った。その方法も、夫人の生命をおびやかすものであってもならないし、しかも夫人が全く気のつかぬ方法でないと駄目である。それは、たいへんに困難な方法だ。いや一体、そのような方法があるものか無いものか、それが案ぜられもした。しかし自らの智恵ぶくろの大きいことに信念をもつ柿丘は、なにかしら屹度《きっと》、素晴らしい手段がみつかるだろうと考えた。
彼は、或る時は図書館に立《た》て籠《こも》って、沢山の書籍の中をあさり、また或る時はそれとなく医学者の講演会や、座談の席上に聞き耳をたてて、その方法を模索《もさく》したのだった。夫人を美酒《びしゅ》に酔わせるか、鴉片《あへん》をつめた水管の味に正体を失わせるか、それとも夫人の安心をかちえたエクスタシーの直後の陶酔境《とうすいきょう》に乗《じょう》じて、堕胎手術を加えようか、などと考えたけれど夫人はいつも神経過敏で、容易に前後不覚《ぜんごふかく》に陥《おちい》らなかったので、手術を加えても、その途中の疼痛《とうつう》は、それと忽《たちま》ち気がつくことだろうと予測された。一度夫人に、手術を加えたことを嗅ぎつけられたが最後、すべては地獄へ急行するにきまっていることだった。なんとかして、雪子夫人が、全く気のつかないうちに、それは手術であるとも、彼の持った毒物であるとも感付かないように、極めて自然にことをはこばなければならないのだった。それは、いかに叡智《えいち》にたけた彼にとっても、容易なことで解決できる謎ではなかった。
だが幸運なる彼は、とうとう非常にうまい方法を知ることができた。
それは、物体の振動を利用する方法だった。いまドロップスの入っていた空《あ》き缶《かん》の蓋を払いのけて底に小さな孔《あな》をあけ、そこに糸をさし入れて缶を逆さに釣り、鉛筆の軸《じく》かなにかでコーンと一つ叩いてみるがいい。そうするとこの缶は形の割合には大きい音をたてて、グワーンと、やや暫《しばら》くは鳴り響いているだろう。強く叩けば更に大きい音響を発する。しかしその音色《おんしょく》は、いつも同じものである。それというのが、こうした箱や壺《つぼ》めいたものには、その寸法からきまるところの振動数というのがタッタ一つきりあるので、一体振動数というのは音色そのものに外ならないものだから、それで同じ器《うつわ》を叩けば、音の大小はあっても、音色はいつも同じなのである。
そこで、もう一つのドロップの空《あ》き缶《かん》をとりあげて、前と同じように、糸でとめて、ぶら下げて置く、その上で、最初の缶を思いきり強く叩くのである。するとたちまち大きい音がするであろうが、音がした上で、手でもってその缶を握って振動を止めるのである。そのとき耳を澄ませて聴くならばいま叩いた缶は手でおさえて振動をとどめたにも拘《かかわ》らず、それと同じような音色《ねいろ》[#「音色」は底本では「音音」]の音が、かなり強くきこえるではないか。はて、その音は、何処で鳴っているのだろうか。
よく気をつけてみるなれば、あとから糸をつけて釣《つ》るした叩きもしないドロップの缶が、自然にグワーンと鳴っているのである。これを共鳴現象《きょうめいげんしょう》というが、二つある振動体が同じ振動数をもっているときには、一方を叩くと振動が空中をつたわって他のものを刺戟することとなる。その刺戟がもともと同じ性質の刺戟だもんで、棒で叩かれたと同じ効果《ききめ》をうけ、そいつも鳴り出すのだ。ちょっと考えると、それは一方が鳴ると、それについて自然に応《こた》えるかのように鳴り始めるようにみえるのだ。若《も》し、別にそっと釣して置いた振動体が寸法のちがうものであっては効果《ききめ》がない。例えば大きい缶詰の空《あ》いたものなんかでは駄目である。つまり振動数が同じでないものでは駄目である。
あとは釣るした缶に、飯粒《めしつぶ》かなんかを、ちょっと付着させた上で、もう一度始めに釣した缶をグワーンと、ひっぱたいてみると、あとから釣るした缶がたちまち振動して鳴りだすのは勿論のことであるが、見て居ると、缶《かん》の壁があまりに強く振動するものだから、其のうちにとうとう、密着していた飯粒が剥《は》がれてポロリと下に落ちてくるのである。――こいつを使って堕胎《だたい》をやらせようというのが、柿丘秋郎の魂胆《こんたん》だった。
子宮《しきゅう》は茄子《なす》の形をした中空《ちゅうくう》の器《うつわ》である。そう考えると、子宮にもその寸法に応じた或る振動数がある筈だ。妊娠後|二《フ》タ月や三月や四月の胎児は、ドロップの缶に付着した飯粒《めしつぶ》も同然で、ほんの僅かの力でもって子宮壁に付着しているのだった。注射器を使って子宮の中に剥離剤を注入すれば、その薬品が皮膚を蝕《おか》すため、胎児と子宮壁とをつないでいる部分の軟《やわらか》い皮が腐蝕して脱落し、堕胎の目的を達するのだった。それを機械的にやるのが、柿丘秋郎のとろうという方法であって、雪子夫人の外部から、強烈な特定振動をもった音を送ってやると子宮はたちまち激しい振動をおこし、揚句《あげく》の果《はて》に彼と夫人との間にできた胎児《たいじ》が、ポロッと子宮壁《しきゅうへき》から剥《はが》れおちて外部へ流れ出し、完全に堕胎の目的を達しようというのだった。
この世にも奇抜な惨忍きわまる方法を見つけだした柿丘秋郎は室内を跳《は》ねまわって歓喜したことだった。彼は二万円近くの金を犠牲にし、旅順大学の研究班をダシにつかって、その邸内《ていない》の一隅《いちぐう》に、実験室外には音響の洩れないという防音室を建て、多くの備付器械《そなえつけきかい》のうちに、予《あらかじ》め、子宮の寸法から振動数をきめて、そのような都合のよい音を出す器械を混ぜて購入したのだった。その機械の据付も終った。器械は、彼が操《あやつ》るのに便利なように、一切の複雑な仕掛けを排し、押釦《おしボタン》一つをグッと押せば、それで例の恐ろしい振動が出るように作らせることを忘れなかった。もっともこの器械を作った人は、魔人のような彼の使用目的をすこしも知らなかったのだった。
さてこの上は、何とか言葉をかけて、雪子夫人をこの実験室に引き入れることができればよいのだった。それはなんの造作《ぞうさ》もないことだった。彼が唯一言、夫人にむかって、「奥さん、例の旅順大学に使わせる実験室がすっかり出来上って、今日の夕方までには、机も器械も全部とりつけが出来るんですよ」とさえ云えばよかった。あとは夫人の方で心得て、
「あら、そお。それじゃ、あたし夜分《やぶん》に、ちょっと、お寄りするわ。ね、いいでしょう、あなた」
と云うに違いないのだった。そして事実はすべてその筋書どおりに、とりはこばれたのだった。時計が七時をうつと、実験室の扉《ドア》がコトコトと打ち鳴らされた。室内にひとりで待ちかまえていた柿丘は、その音を聞くと、ニヤリと薄気味の悪い嗤《わら》いをうかべて、やおら、椅子の上から立ちあがった。
内部から柿丘が扉《ドア》を開くと、とびつくようにしてよろめきながら、雪子夫人が入ってきた。
「貴女お独り?」
と、柿丘はきいた、念のために……。
「ええ独りなのよ。どうしてさ、ああ、奥さんのことなの。奥さんなら、いまちょいとお仕事が、おあんなさるのですって」
雪子夫人は、お饒舌《しゃべり》をしたあとで、娼婦《しょうふ》のように、いやらしいウインクを見せたのだった。
「奥さん、今夜はどうかなすったんですか、お顔の色が、すこし良くないようですね」
「あら、そお。そんなに悪い?」
「なんともないんですか」
「そう云われると、今朝起きたときから、頭がピリピリ痛いようでしたわ。きっと、芯《しん》が疲れきっているのねえ」
「用心しないといけませんよ。今夜はなる可《べ》く早くおかえりになっておやすみなさい」
「ええ、ありがとう、秋郎さん」
そう云って、夫人はそっと額に手をやった。夫人は、巧みにも柿丘の陰謀から出た暗示に罹《かか》ってしまったのだった。
それから柿丘は、室内を一《ひ》と巡《めぐ》り夫人を案内して廻った。最後に二人が並んで立ったのは、例の奇怪なる振動を出すという音響器の前だった。柿丘は出鱈目《でたらめ》の実験目的を説明したうえで、右手を押釦《おしボタン》の前に、左手を、振動を僅かの範囲に変えることの出来る装置の把手《ハンドル》に懸けた。これは、万一計算が多少の間違いをもっていたときにも、この把手をまわすことによって振動数を変え、例の恐ろしい目的を果そうという仕組みだった。
「じゃ、ちょっと、その音響を出してみますよ。たいへん奇妙な調子の音ですが、よく耳を澄ましてきいていると、なにかこう、牧歌的《ぼくかてき》な素朴な音色があるのです」
柿丘秋郎は、捉《とら》えた鼠を嬲《なぶ》ってよろこぶ猫のような快味を覚えながら、着々とその奇怪な実験の順序を追っていったことだった。
「まアいいのねえ、早くやって頂戴な」
と恐ろしい呪《のろ》いの爪が、おのれの身の上に降るとも知らない様子で、雪子女史は実験を待ち佗《わび》るのだった。
「では始めますよ。ほーら、こんな具合なんです……」
柿丘は右手の指尖《ゆびさき》でもって、押釦をグッとおしこんだ。忽《たちま》ち鈍いウウーンという幅の広い響きが室内に起ったが、その音は大変力の無い音のようで居て、その癖に、永く聴いているとなにかこう腹の中に爬虫類《はちゅうるい》の動物が居て、そいつがムクムクと動き出し内蔵を鋭い牙でもって内側からチクチクと喰いつくような感じがして、流石《さすが》に柿丘も不愉快になった。だが手軽くこの音響をやめては、折角の堕胎作用も十分な効目を奏さないことだろうと思って、我慢に我慢をして押釦から指尖を離さなかった。
「なんだか、やけに地味な音なのねえ」
「どうです、この牧歌的《ぼっかてき
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