とを準備していないようなぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]者だと思っているの? あたしが死ぬと同時に、一切が曝露《ばくろ》するという書類と証拠が、或る所に保管されているのを知らないのねえ」
「ああ、僕は大莫迦者《おおばかもの》だった」
 鳴咽《おえつ》する柿丘の声と、淫《みだ》らがましい愛撫《あいぶ》の言葉をもって慰《なぐさ》めはじめた雪子夫人の艶語《えんご》とを其《そ》の儘《まま》、あとに残して、僕はその場をソッと滑るように逃げだすと、跣足《はだし》で往来へ飛びだしたのだった。


     3


 その後、柿丘秋郎と、白石博士夫人雪子とは、すくなくとも外見的には、大変平和そうに見えた。室内にレコードを掛けて、柿丘と雪子とが相抱いて踊りはじめると、赭顔《あからがお》の博士は、柿丘夫人呉子さんを援《たす》けておこして、鮮《あざや》かなステップを踏むのだった。
 秋という声が、どこからともなく聞こえてくると、急に誰もが緊張した顔付をするのだった。柿丘秋郎は、かつての日の雪子夫人の恐迫《きょうはく》に震《ふる》えあがったのを忘れたかのように、事業や講演に熱中した。だが、その度毎《たびごと》
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