の本名を曝露《ばくろ》しない其の理由は、彼の妻君である柿丘呉子《かきおかくれこ》を、此後に於ても出来得るかぎり苦しめたくないからなのである。呉子さんは野獣的な今の世に、まことに珍らしいデリケートな女性である。それをちょっと比喩《たと》えてみるなれば、柔い黄色の羽根がやっと生えそろったばかりのカナリヤの雛仔《ひな》を、ソッと吾《わ》が掌《て》のうちに握ったような気持、とでも云ったなら、仄《ほの》かに呉子さんから受ける感じを伝えることができるように思われる。庭の桐《きり》の木《き》の葉崩《はくず》れから、カサコソと捲きおこる秋風が呉子さんの襟脚《えりあし》にナヨナヨと生え並ぶ生毛《うぶげ》を吹き倒しても、また釣瓶落《つるべお》ちに墜《お》ちるという熟柿《じゅくし》のように真赤な夕陽が長い睫《まつげ》をもった円《つぶ》らな彼女の双《そう》の眼を射当《いあ》てても、呉子さんの姿は、たちどころに一抹の水蒸気と化して中空に消えゆきそうに考えられるのだった。ああ僕は、あだしごとを述べるについて思わず熱心でありすぎたようだ。
 このような楚々《そそ》たる麗人《れいじん》を、妻と呼んで、来《きた》る日《
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