たのです」
「じゃあ、出されたのはもうあんたを烏啼から保護しなくも危険はないという事態になったと考えていいのか」
「事態がそうなったというよりも、わしの実力を以てすれば烏啼の輩から危害を受けるおそれなしと当局が認めたせいですよ」
「あんたはこれから烏啼と一騎打をするのか」
「従来からも一騎打をして来たですから、もちろんそれを続けますよ」
「烏啼がどこに居るか、あんたは知っているのか」
「はあ、よく知っていますよ」
「当局は烏啼の所在が分らないといっている。あんたは当局に教えてやらないのか」
「訊かれもしないことについて喋《しゃべ》らないでもいいでしょう。当局には当局で、お考えもありまた面子《めんつ》もあるのでしょう」
「あんたは、烏啼が本当に安東の心臓を盗んだと思っているのか」
「はい。そう思っています」
「じゃあ、烏啼は何の目的があって安東の心臓を盗んだと思うか」
「恋愛事件が発生しているのですね」
「ぷッ」と新聞記者は噴《ふ》きだして「恋愛事件だって。しかし烏啼は男の子だろう。男の子が男の子の心臓を盗んだって一体何になろう。況《いわ》んや、言葉じゃ“心を盗む”とか、“心臓を自分の所有にする”とかいうが、ほんものの血腥《ちなまぐさ》い心臓を盗んだって、なんにもならんじゃないか」
 記者たちは笑いながら散っていった。
 あとに袋探偵は、猫背を一層丸くして、一つ大きなくさめをした。それから彼は手の甲で洟《はな》をすすりあげ、大きな黒眼鏡の枠をゆすぶり直すと、両手を後に組んで、ぶらぶらと歩き出した。
 見えがくれに尾行して来る六名の記者を地下鉄の中でうまくまいて、かれ袋猫々は、とつぜん安東仁雄の病床を訪れた。
 安東は、北向きの病床に上半身を起し、さかんに南京豆《なんきんまめ》の皮を指でつぶして、豆をがりがり噛んでいた。血色は、すばらしくよかった。彼の病床のまわりには、看護婦が五六人もたかっていた。
 それらの婦人を遠慮してもらって、袋探偵は安東とさし向いになった。
「探偵さん、僕はもうやり切れんですよ」
「お察しします」
「僕の心臓は見つかりましたか」
「まだです」
「まだですか。困るなあ、見つからなくては……烏啼氏は見つかりましたか」
「わしはまだ彼を訪問していません」
「どこに居るのか分っているのですか」
「多分……。但し、わしにだけはね」
「烏啼氏に会ったら、僕に代って懇願して下さい。金はいくらでも出すから、元のように本当の心臓をはめて下さいって」
「いうだけはいってみましょう」
「とにかくこうして代理心臓を首から釣り下げていたんでは、恰好が悪くてあの娘の前にも出られませんしねえ」
「そう、その“あの娘”について伺いに参ったわけですが、そのお嬢さんのお名前はなんというのですか」
「今福西枝というんです」
 安東はベッドの上に指でその字を書いた。
「イマフク・ニシエさんですね。ようござんす。ひとつ努力をして見ましょう」
「探偵さん。お願いですよ。あの娘の前へ、あの娘にいやがられないで出られるように、一日も早くさっきのことを解決して下さい」
「いやに気の小さい台辞《せりふ》を仰せられまする」
「僕は生まれつき気が弱くてね。だからあの娘とまる一年も交際しながら、まだ僕は自分の意志表示さへ出来ないんです」
「あなたの情熱が足りんのじゃないですか」
「そんなことはない。僕は自分の情熱が百度以上に昇っているのを知ってます」
「とにかく後でまたご連絡しましょう」
 袋探偵は、頭をふりふり病院を出ていった。


   意外と意外


 それから袋探偵は、急に忙しくなった。
 気になることを大急ぎで一つ一つ片付けてゆかねばならない。
 彼はまず安東仁雄の性行調査を行った。安東の止宿しているアパートのおばさんをはじめ、その友人たち、勤め先の上役と下僚、それから彼の加入しているロザリ倶楽部《クラブ》の給仕や給仕頭や預所の婦人たちを訪ねまわった。
 その結果、安東仁雄の人柄がわかった。彼は模範的な温和《おとな》しい青年であって、金銭関係についても婦人関係にかけても極めて厳格であって、一つのスキャンダルもない。強いて欠点をあげれば、彼安東はまるで徳川時代の箱入娘のように気が小さすぎて、人前にもろくに口がきけず、況んや婦人に向いあうと、たとえ相手が八十の梅干婆さんであっても、彼は頬から耳朶《みみたぶ》からすべてを真赤に染めてはずかしがるのだそうであった。
(はてな。それはすこし解せないことだわい)
 と、袋探偵は頸をひねった。というのは、彼は安東が自分の病床のまわりに若い看護婦を五六人もひきよせて、きゃつきゃっとふざけていたこの間の光景を思い出したからだ。また安東は、口では自らの気の小さいことを訴えるが、しかしこの間は血色もよく、言葉もはきはきして、なかなか元気に見えたのだった。
 どこかに喰い違いがある。それとも証人たちが揃って嘘をついているのかもしれない。しかし揃って嘘をつくということはむずかしいことである。探偵は、また首をかしげながら、第二のコースへ廻った。
 そこは、心臓を盗まれた安東仁雄の秘めたる恋の相手である今福西枝嬢の邸宅附近であった。
 近所で聞合わせてみると、この今福嬢なるものが、また非常に気の弱いお嬢さんだそうであって、この波風荒き世にかりそめにも生き伸びて居らるるのがふしぎなくらいだそうであった。
 丁度そのとき一台のスマートなクーペ自動車が、今福邸の門前についた。降り立ったのは体躯人にすぐれたる男、すこし長すぎるが、魅力のある浅黒い艶のある顔、剃刀《かみそり》をあてたばかりの頬が青く光っている。ポマードを惜気もなく使った長髪、薄紫の硝子《ガラス》のはまった縁なしの眼鏡、ぴんとはねたる細身の鼻下の髭。それが赤と白との縞ネクタイを締め、スポーツ型の薄いグリーンの格子織のオーバーを着込んで、ゆったりと門の中へ入って行く姿は、女ではなくとも見惚れるほどのすばらしい美男の紳士だった。
「あの殿御《とのご》ですよ。初めて今福さんのお嬢さんと大ぴらの交際をなさるようになったのは……」
 煙草屋の内儀《かみ》さんが袋探偵に囁《ささや》いた。
 探偵は呻《うな》った。
 しばらくすると門の中から、さっきの紳士が、栗鼠の毛皮のオーバーにくるまった細面《ほそおもて》の麗人《れいじん》を伴って出て来た。
「ほらお嬢さまのお出ましですよ。あの殿御は今日で六日間お迎えにいらっしゃいますのよ。なんてご親切な殿御でしょう」
 内儀さんは溜息をつき、探偵は二度目の呻り声をあげた。
 クーペは薄紫のガソリン排気を後にのこし、車上の男女は視界から去った。
 探偵はようやく吾に戻って、周章《あわ》てだした。
「あんな若作りの変装をしてやがるが、あの殿御なる野郎は、誰が何といおうと、正《まさ》しく賊烏啼めに違いない。これで三角形の三つの頂点ABCが見つかったぞ。よし、それならこっちにもやり方がある」
 さきに告白を受けた安東仁雄と今福西枝の関係、それから今の今福西枝と烏啼天駆の関係が明白となった以上、もう一つの烏啼天駆対安東仁雄の関係が当然想到されるのだ。そしてこの第三関係の深刻の程度は、他の二つの関係によって決まる。この三角関係の実相調査こそ、本事件を解くの正道だと考えた袋探偵は、隠しておいた無音オートバイにひらりと跨《またが》ると、さっきのクーペの後をめがけて大追跡に移ったのであった。
 すばらしく鼻のきく袋猫々のことであるから、辻々に到れば、すなわち鼻をひくひくさせて、今福嬢の残香《のこりか》漂い来る方向を、嗅ぎあて、その方向へ驀《ひたす》らにすっとばしたのであった。そして約十五分間後、彼はロザリ倶楽部の玄関に着いた。
 つづいて彼は倶楽部内に紛《まぎ》れこんだが、そこで彼は十分なる資料をつかんだ、今福嬢にぴたりとくっついて、一分間といえども離れないかの豪華版紳士がいよいよ以て烏啼天駆の変装なること、この二つが確認された。
 そこで探偵は、倶楽部を出て、公衆電話函の中に入った。呼び出した相手は、余人ならず入院中の安東仁雄だった。
「あなたですな。お約束したものですから、その後の判明事項をご報告しますが、おどろいちゃいけません、心臓に悪いですからなあ」
「それはどうもすみません。何ですか、そのおどろいちゃいけないというのは……」
 安東の声は落着きはらっていた。探偵は、今に先生びっくりするぞ。ひょっとすると途端にひきつけるかもしれないが、幸い彼の居るところは病室だから、応急手当には事欠かないだろうと安心して、いよいよ報告にとりかかった。
 報告を受ける、安東は叩きつけるような声で怒鳴った。
「ああ、分りました。その野郎なら知っていますよ。どうもいやな野郎だと思っていたが、僕が入院しているのを奇貨[#「奇貨」は底本では「奇果」]として、あの娘をくどいているんですか。けしからん奴だ、あの野郎――月尾寒三というんですよ、そののっぽ野郎は……」
「ほう、月尾寒三ですか」
 袋探偵はうっかりしていて、烏啼のラブ・ネームを調べることを忘れていた。そうだった。ぼくは烏啼天駆です、愛しきお嬢さん――では恋を得ることは困難であろう。
「駄目ねえ、探偵さんが僕の恋敵の名前を知らないなんて。が、それはまあ大したことじゃない。僕にとって我慢ならぬのは、その月尾寒三の野郎です。よろしい、僕は決心しました。これから倶楽部へ行って、月尾寒三をのしあげて、今福嬢を奪還します。ではいずれ後で……」
「えっ、それは待った。もしもし。もしもし……」
 探偵は送話口に噛みつくように叫んだが、安東の返事は遂になかった。


   一点奪還


 桃色の風雲は突如としてロザリ倶楽部に捲きおこり、そして次にはそれが新聞やグラフィックに取上げられて、でかでかに報道された。曰く“心臓盗難男の恋の鞘当《さやあ》て”曰く“奇賊烏啼も登場の今様四角恋愛合戦”また曰く“無心臓男の恋の栄冠”と。
 このように敏感なる報道陣も、賊烏啼と恋の選手月尾寒三とが同一人物たることには思い到らず、それ故に四角の恋愛合戦と伝えているところは、袋探偵には笑止《しょうし》だった。
 このことあって四五日のうちに、かれ安東仁雄は、烏啼のため心臓を盗まれ而《しか》もなお生きている男として一躍社会の人気者となり、そして彼はかねての放言どおり月尾寒三を見事に押切って今福嬢の愛を得てしまったので、その人気は更に高まった。その後に期待さるるものは、両人の結婚の日取がいつに決定するかということだった。
 このようなスピーデーな意外な現実に、袋探偵は徹頭徹尾大面くらいの形であったが、心臓を抜かれた安東仁雄が、心臓を抜かれたことによって一躍有名となりそして待望の恋まで得てしまった今日、安東は十分満足し切っているであろうから、従って彼の安東に対するサービスはもうしなくなったものと信じた。それで彼は安東の渦巻から遠のいていた。
 ところがある日彼は、ある所でばったりと安東仁雄に行き会った。めずらしく彼は西枝を連れていなかった。その代りに新聞記者が十四五人とりまいていた。
「安東君、おめでとう。顔色はますますいいようだね」と、袋探偵が声をかけた。
「ああ、会いたかった、猫々先生」叫んで安東は袋探偵に抱きついた。代用心臓の箱が失礼ともいわずに袋探偵の肋骨《ろっこつ》をいやというほど突いた。「僕ほど不幸なものはない。どうにかして下さいよ、猫々先生」
 袋猫々にとって安東のいっていることがよく分らなかった。が、それから暫くたって、彼は安東の泣きついている次第を了解した。恋も得たし、ジャーナリズムにネタを提供して金持にもなったが、元の本物の心臓につけ替えてもらわねば不幸かぎりなしとの訴えだった。
「……なにしろ、これじゃあ風呂にも入れませんし――代用心臓は電気で動いている器械ですからねえ。それに西枝と結婚すれば、たいへん困ることが出来るんです。どうか先生烏啼にそういって、僕の心臓を返して貰って下さい」
「困ったねえ」
 と、袋探偵はいつになく困って返事を
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