。彼は驚愕《きょうがく》の声を懸命に嚥《の》んだ。若紳士の左胸に捲いた繃帯《ほうたい》は、空気の抜けたゴム毬《まり》のようにへこんでいた。
 だが、あやしいことにスットン、スットンと音が聞える。正しく心音と思われる。
 袋探偵はこのことをまことに若紳士に告げ、その注意を喚起《かんき》した。
「それは聞えている。しかしその音は、僕の胸の中でしているのではない。そしてその音は、僕が二十四時間聞きなれた僕の心臓の音ではないのだ。――ああ、僕の心臓を奪っていった奴。そやつをとっ捕えて、僕の心臓を取戻してくれ。ああ、神様。いや悪魔でもいい、それをやってくれるなら……」
 と、かの気の毒な若紳士は、心臓を奪われた人の声とは思われない張りのある声で述べたのであった。
 袋探偵は困惑のどん底になげこまれた形であった。
 しかし彼は、かねてそのどん底というやつにぶつかると同時に反作用的に元気を盛りかえす習慣のある人物だったので、どん底に叩きつけられるが早いか、たちまち怒牛《どぎゅう》のように奮い立った。
 もっとも、このときは、翻然奮起《ほんぜんふんき》すべき一つの素因のためにお尻をどやされたのである。それはどういうことかというと、この奇怪なる心臓盗人の下手人は、かの烏啼天駆めの仕業《しわざ》に違いないと悟ったからである。烏啼天駆めこそ、袋探偵の常に血を逆流させるはげしき相手だったから。


   図星《ずぼし》の大犯人


「ほら、この通り。この青年紳士安東仁雄君の心臓は、きれいに切り取られてしまって、あとは穴があいているのです」
 袋探偵は、あれから早速《さっそく》通報して呼び迎えた検察当局のお役人衆に説明をつけているところである。
「生きている人間の心臓を芟除《さんじょ》するなんてことは、かの憎むべき怪賊烏啼天駆めの外に、何人がかかることをなし得ましょうか。実にかの天駆の技術に至っては正に世界一――いや実に憎むべき天駆めである」
 ほめているのか、憎んでいるのか、さっぱり分らない。
「なるほど、そういうわけで猫々先生は、烏啼の仕業と判断せられたわけですな」
 捜査課長の虻熊《あぶくま》警視が挨拶をした。
「いや、烏啼が下手人である証拠は山のようにありますぞ。あなたがたはそれに気がつかれないのですか」
「どうも残念ながら……猫々先生の専門眼を以てお教えにあずかりたい」
 言葉の意味とは違って、ぶっきら棒に、課長はいった。
「あなたはわしをおからかいなのではないでしょうか。いいですか。心臓をちょん切って持っていったのを第一とし、次にこの黒い四角い包みがそうなんですが、これは代用心臓が入っているんです。スットン、スットンと音がしているでしょう。あの音は、この箱の中に仕掛けてある喞筒《ポンプ》が、正しく一分間に六十回の割合で、この青年の血液を、心臓に代って、全身へ送り出しているんです」
「ほほう」
 と、検察官たちは、黒箱へ耳を寄せて、おどろきのあまり口を丸く開く。
「お分りになったでしょうな。このような優秀な代用心臓を供給し、それを見事に取付ける手際からいって、その下手人は烏啼めの外にはないと断言ができます。これが第二の証拠ですわい」
「ほほう」
「そればかりか、この黒い風呂敷をごらんなさい。ここに見えるのは、烏《からす》の形をした染め抜き模様です。これは赤ン坊が見てもそれと判断ができるでしょう、この風呂敷が奇賊烏啼の所有品だということは……。これが第三」
「ほほう、これは気がつかなかった」
「第四には、賊はこの青年紳士安東仁雄君の心臓を強奪すると共に、直ちに代用心臓を与えて居る。つまり賊は、被害者の生命の保護ということについて責任ある行動をして居る。このように仁義のある紳士的な賊は、烏啼天駆めの外にはないのです。有名な彼の言葉に――“健全なる社会経済を維持するためには何人といえども、ものの代金、仕事に対する報酬を支払わなければならない。もしそれを怠るような者があれば、その者は真人間《まにんげん》ではない。たとえ電車の中の掏摸《すり》といえども、乗客から蟇口《がまぐち》を掏《す》り盗《と》ったときは、その代償として相手のポケットへ、チョコレートか何かをねじこんでおくべきだ。そういう仁義に欠ける者は猫畜生にも劣る”――というのがありますがな、猫畜生なる言葉は適切ではないが、その趣旨は悪くないと思う。つまり相手から心臓を奪いながら、すぐさま代用心臓を仕掛けて相手の生命を保護するというやり方は、これは烏啼めのやり方です」
「ふふん、ふしぎなやり方ですな」
「ふしぎじゃないですよ。いくら賊にしろ、お互いに人間同志だから、烏啼のようにやるべきですよ。――まだある、第五には……」
「もう、そのへんでよいです」
「いや、大事な証拠をあなたがたが見落して行かれ
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