は勝見に暇を出したくはあったが、例のことを喋《しゃべ》られるのを恐れて、絶対に馘首が出来ない。それでますます、勝見が悩しき存在となって来たのでありました。
ところが、兄は更に勝見に対するこだわりを深くしなければならないことになったのです。いや、そればかりではなく、彼の恋女房である綾子をさえ、真面《まとも》に見ることができなくなったのです。それは、勝見が笛吹川画伯の埋葬を済ませて帰って来てから、一週間ほどのちの出来事でした。兄が綾子の室へ用事があって扉《ドア》の把手《ハンドル》に手をかけたとき、何事にも気が付かないような熱心さで、綾子と勝見が言い合っているのを聞いてしまったのです。
「笛吹川さんは、ほんとうに死んだの」
「本当でございます。お疑いならば日暮里の火葬場へお尋ね下さい。それから画伯の骨を埋めた今戸の瑞光寺へお聞き合わせ下さい。しかし何故、奥様はそんなことをおっしゃるのです」
「わたしには、あの人が死んだように思われないの。あの通りエネルギッシュな笛吹川さんが、そう簡単に死ぬもんですか。ことに心臓麻痺で頓死なんて、可笑《おか》しいわね」
「可笑しくても仕方がありません。画伯はもう骨になっています。それでも死んでいないとおっしゃるのですか」
「あんたの言うようなら、死んだのに違いないでしょう。しかしわたしの直感を正直に言ってしまえば、笛吹川さんは、死んでいないか、さもなければ、誰かに殺されたのに違いない。――あんたは何か知っているのでしょう」
「はい、私は二三のことを存じて居ります」
「言ってごらんなさい、なにもかも」
「では申しあげます。先ず第一に、笛吹川画伯の亡くなった時刻に、奥様は何処にいらっしゃいましたか?」
「まア、お前は……。何を失礼なことを考えているんです。わたしは、どこにいようと、余計なお世話です」
「失礼だとあれば、私は追窮《ついきゅう》はいたしますまい。しかし万一、捜査課の警部たちがひきかえして来て、奥様にこの質問をいたしたものと仮定しますと、唯失礼だと許《ばか》りで追払うことは出来ますまい。不幸にもあの時刻に於ける奥様の現場不在証明《アリバイ》は不可能でいらっしゃいましょう」
「……」
「第二には、旦那様のご存じないところの、笛吹川画伯と奥様との御交渉でございます。これも失礼と存じますので、内容は申しあげません。第三に……」
そのとき兄は、大きな咳払《せきばらい》と共に、重い扉を押して室内に入って来ました。勝見は白々しく敬礼を捧げましたが、再び嫂の方に向い、
「では麻雀《マージャン》競技会にいらっしゃるお客様は、八十名と考えましてお仕度をいたしましょう。会場は階下の大広間を当てることにいたしましょう。卓《テーブル》の方は、早速、聯盟の事務所と打合せまして、ハイ、もう外に伺《うかが》い落したことはございませんか。では……」
勝見はすこしも臆《わるび》れる様子もなく、扉をあけて去りました。兄夫婦の間には、しばらく白々しい沈黙が過ぎて行きました。
「あなた、このごろ勝見の様子が、どこか変じゃありませんこと?」
「笛吹川が亡くなったので、気を落しているのだろう」
「そうでしょうか。勝見が独りでいるところを横から見ていますと、何かに憑《つ》かれているようなんですよ。話をして見ても、言語のはっきりしている割合に、どことなく陰険《いんけん》なんです。それに勝見はこんな顔をしていたかしらと思うこともあるのです。あの眼。このごろの勝見の眼は、死人の腐肉を喰べた人間の眼ですよ」
「そりゃ、よくないね。君は神経衰弱にかかっているようだよ。養生しなくちゃ……」
「神経衰弱なんでしょうか?……でも気味が悪いんですもの。わたしもあの男に喰べられてしまうかも知れないわ」
「馬鹿なことを言っちゃいけない。だからこれからは、麻雀競技会を時々開いて大勢の人に来て貰うのさ。今に、親類のように親しくなる人が三人や四人は出来るよ」
「勝見に暇をやることはいけなくって?」
「ウム。いけないこともないが、時期がある。つまらないことを喋られてもいやだからな」
「私はもうこの館《うち》が、いやになったわ」
兄は毎日を家の中に居て、別にすることなく暮していました。言わば、典型的な有閑階級に属する人間でした。そういう種類の人間は必ず何か趣味を持っているものなのですが、兄の場合には強いて挙げるならば三つの趣味とも娯楽ともつかないものを持っていました。
その一つは、麻雀でした。彼はこの勝負事に一時かなり熱中したことがありました。多分最初は、麻雀という時間のかかる競技が、彼のように多くの閑を持つ人間を、無聊《ぶりょう》から救ってくれたからでありましょう。しかし段々と競技をすすめて見ると、一か八かの勝敗から、その日、その月の彼の運命が勝負の中に織りこ
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