りあげると、静かに酌《つ》いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが阻害《そがい》された。誰があの暗黒《あんこく》のなかで、選《よ》りに選《よ》って非常に正確を要する延髄《えんずい》の真中に鍼《はり》を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という超人《ちょうじん》でなければ、到底《とうてい》想像し得られないことだった。ダリア嬢は、然《しか》りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの銀鍼《ぎんばり》をシャープペンシルの軸《じく》の中に隠して持っていたのだった。
 これに対して僕の探偵力は、全く貧弱《ひんじゃく》なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより外《ほか》に仕方がなくなるのだ。僕はそんな莫迦気《ばかげ》たことがと排斥《はいせき》していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは極《ご》く最近のことだ。以前に於《おい》ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に探索《たんさく》の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても化《ば》けの皮を剥《は》いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との秘交《ひこう》の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを掴《つか》む計画を樹《た》てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
 最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの水珠《みずたま》のように円《まる》い標的《ひょうてき》を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を悟《さと》って拳銃《ピストル》をとりあげようとはしなかった。若《も》しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している深山《みやま》の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に映《うつ》るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから脱《の》がれた。しかし射撃を拒《こば》んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる効能《ききめ》はあった。
 さて、最後のトリック――それには鬼才《きさい》ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし下卑《げび》た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい尿意《にょうい》を催《もよお》したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや否《いな》やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような粗相《そそう》を演ずることになる。彼女は極度に狼狽《ろうばい》していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い灯《あかり》がついている。彼女は扉《ドア》を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし茲《ここ》に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
 それは、この『便所』と書いた赤い灯《あかり》は、普通の視力をもった人間には、到底《とうてい》発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を無造作《むぞうさ》に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は予《かね》て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。流石《さすが》のダリア嬢もこうなっては策の施《ほどこ》しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』――いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」



底本:「海野十
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