うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が便宜上《べんぎじょう》拵《こしら》えた創作的観念であって、実在ではなかった。
何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を呀《あ》ッと云わせて虚名《きょめい》を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が消費《つかい》こんだ大金《おおがね》の穴埋《あなう》めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、逸早《いちはや》く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は情婦《じょうふ》という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分|貢《みつ》いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との秘交《ひこう》を赤外線映画にうつしたのは、夫人に挑《いど》むことよりも莫大《ばくだい》な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで済《す》んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの狒々《ひひ》のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと唆《そその》かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
しかしダリアの使嗾《しそう》に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない情婦《じょうふ》桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった恰好《かっこう》になった。其《そ》の後《ご》に来るもの――それを考えると彼は安閑《あんかん》としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを幸《さいわ》い、水素|瓦斯《ガス》を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を醒《さ》まされ、不成功に終ってしまったのだ。
ダリアはこの事を勿論《もちろん》感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を荒立《あらだ》てる代りに、一層《いっそう》深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを牛耳《ぎゅうじ》ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、右眼《うがん》は大した損傷《そんしょう》もなかったが、左眼《さがん》はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が潰《つぶ》れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に侵《おか》されて駄目になると、のこりの一方の肺が代償《だいしょう》として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の明《めい》を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、一眼《いちがん》になって異常な視神経の発達により、普通の人には到底《とうてい》見えない赤外線までが、アリアリと彼女の網膜《もうまく》には映《えい》ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ視《み》える。――この異常な感覚を自覚したときのダリアの狂喜《きょうき》ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。殺人淫楽者《さつじんいんらくしゃ》という恐ろしい犯罪者に堕《お》ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って秘密曝露《ひみつばくろ》の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、琥珀色《こはくいろ》の液体をグーッと呑《の》み乾《ほ》した。筆者《わたくし》は壜《びん》をと
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