、愚図愚図《ぐずぐず》しているうちに、頭髪《かみ》についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」
ダリアは黒眼鏡を外《はず》して見たが、左眼《さがん》はまるで茹《ゆ》でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや充血《じゅうけつ》している位でまず無事な方であった。
「全く危いところでしたよ。連日《れんじつ》の努力で、もう身体も頭脳《あたま》も疲れ切っているのです。神経ばかり、高《たか》ぶりましてネ」と理学士も側《そば》へよって来て述懐《じゅっかい》した。彼の眼の色も、そういえば尋常《じんじょう》でないように見えた。
「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」
ダリアは独《ひと》り言《ごと》のように云った。
一同は此の室に何だか唯《ただ》ならぬ妖気《ようき》が漂《ただよ》っているような気がした。
「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり暗室《あんしつ》にして呉《く》れ給《たま》え」
「はい、畏《かしこま》りました」
ダリアは割合《わりあい》に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと蝶番式《ちょうつがいしき》にとりつけてある雨戸《あまど》を合わせてピチンと止《と》め金《がね》を下《お》ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン灯《とう》が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。隅《すみ》によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が灯《ひ》の下へゾロゾロと集ってきた。
「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。
「何だか、頭の上から圧《おさ》えられるようだ」そういったのは白髪《はくはつ》の多い中河予審判事だった。
「このネオン灯《とう》も消します。そうしないと巧《うま》く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、仰有《おっしゃ》って下されば、いつでも点《つ》けます」
「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が悲鳴《ひめい》に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」
幹部だけが、スクリーンを包囲《ほうい》して、椅子に席をとった。
「いいですか」
「いいよ」
パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、朧気《おぼろげ》な映像があらわれた。
「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。
「ピントが外《はず》れているのです。増幅器《ぞうふくき》もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」
なるほど映像はすこし明瞭度《めいりょうど》を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。
「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」
「これは、こっちのレンズからお覗《のぞ》き遊ばして……」捜査課長の耳許《みみもと》でダリアの声がした。
「呀《あ》ッ」と課長は慌《あわ》てたが「いやなるほど、よく見えます。――なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」
まず赤外線男ではなかったので安心した。
「この辺《あたり》のところですから、さあ誰方《どなた》も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。
「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。
ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。
「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが呟《つぶや》きながら視《み》ている。
そのとき真暗《まっくら》だった室内へ、急に煌々《こうこう》たる白光《はっこう》がさし込んだ。
「呀《あ》ッ!」
「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。
一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この眩《まぶ》しい光に会ってクラクラとした。
「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。
「困るじゃないか」深山は云った。
「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか触《さわ》りましたのよ。吃驚《びっくり》して、窓をあけたんですの」
「ああ、もう出たかッ――」
「赤外線男!」
「窓を皆、明けろッ!」
そのとき白丘ダリアは朗《ほが》らかな声で云った。
「いいえ、大丈夫ですわ。カー
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