ないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて呉《く》れ』と怒鳴《どな》りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ昏倒《こんとう》してしまったのです。それから途中、全然記憶が欠《か》けているのですが、イヤというほど横《よこ》ッ腹《ぱら》に疼痛《とうつう》を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに載《の》っているのです。それが先刻《せんこく》、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には猿轡《さるぐつわ》を噛《か》ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が悪夢《あくむ》のように眼に映ります。実験戸棚の扉《ドア》が、風にあおられたように、パターンと開く、すると棚《たな》に並べてあった沢山の原書《げんしょ》が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた洋紙《ようし》や薬品の小壜《こびん》などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、正視《せいし》するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃|唱《とな》えたこともなかったお念仏《ねんぶつ》を口誦《くちずさ》んだほどでした」
理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、憐愍《れんびん》を求めるように見えた。
「それから、どうしたです」課長は尚《なお》も先を促《うなが》した。
「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、壊《こわ》れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に跫音《あしおと》がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな響《ひびき》がしはじめました。掛矢《かけや》でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と経《た》つうちに段々静かになり、軈《やが》て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も魂《たましい》も消し飛ばしてガタガタ慄《ふる》えていましたが、幸《さいわい》にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」
そういって深山理学士は、大きい溜息《ためいき》をついたのであった。
「君は、そのとき、何か扉《ドア》の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が尋《たず》ねた。
「そうです。そういえば、跫音《あしおと》らしいものが空虚な反響《はんきょう》をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」
「ふふん、それはどうも……」課長は低く呻《うな》った。
「どうでしょうか、ちょっとお尋《たず》ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の深山《みやま》先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」
「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」
そのとき一人の刑事と何か囁《ささや》き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。
「君、一つ発見したよ。この室《へや》の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」
「靴の跡ですか」
「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この室《へや》のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの踵《かかと》の摩滅具合《まめつぐあい》から云ってこれは血気盛《けっきさか》んな青年のものだと思うよ」
「検事さん、待って下さい」と捜査課長は慌《あわ》て気味《ぎみ》に云った。
「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」
「それは勿論《もちろん》、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」
「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは滑稽《こっけい》じゃないでしょうか」
「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男
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