下橋《やましたばし》へ」
 怪しい医師は、小さい包を、漢青年にソッと握らせた。青年は、その手を無言《むごん》の裡《うち》に、強く握りかえすと、そのままツツと屋根の上を走ると見る間に、ひらりと身を躍らせて、飛び降りた。大きな水音がきこえると、彼《か》の怪しい医師は、暗闇の中に、ニッと微笑したのだった。


     4


「昨夜の事件は、当分記事禁止らしいね」私は、片手を繃帯《ほうたい》で痛々しく釣った帆村に云った。
「それほどのことでもないが」と帆村はニヤリと笑った。
「こっちで騒ぎを大きくしたようなものさ」
「ボラギノール一壜《ひとびん》で、君があんなに器用な真似をするとは思わなかった」
「君があの壜を拾ってくれなかったら、この事件は今頃どうなっていたか、しれやしない」帆村は、大きく溜息《ためいき》をついて、そこに脱ぎすててある中国医師の服装の上に目を落とした。
「だが孫火庭が呼びに来てくれるまでは、気が気じゃなかった」
「あの風変りな新聞広告が、きいたのだね」
「ふふ」なにを思いだしたのか、帆村が笑った。久振《ひさしぶ》りに見る彼の笑顔だった。
「漢青年は、うまく脱走したかなァ」
「大抵《たいてい》大丈夫だろう」
 帆村は大して心配していない様子だった。
「それにしても、どうして孫火庭は、漢青年に背《そむ》いたんだ」
「大きな金と名誉とを握らされたんだよ」彼は嘔出《はきだ》すように云った。「中華民国の崩壊をなんとかして支えようという某要人《ぼうようじん》が、孫を買収したのだ。王妖順はその要人の一味だ。もし漢青年が今日《こんにち》のように切迫《せっぱく》した時局を知ったなら、彼は立《た》ち処《どころ》に故山《こざん》に帰り、揚子江《ようすこう》と銭塘口《せんとうこう》との下流一帯を糾合《きゅうごう》して、一千年前の呉《ご》の王国を興したことだろう。それは中国の心臓を漢青年に握られるようなものだ。だから当分のうち時局の切迫を漢青年に報《しら》せずに置くことが、必要だったのだ。そうかと云って、彼の生命を断《た》つことは、今日あの辺に巨富《きょふ》を擁《よう》している大人連《たいじんれん》の怒りを買うことであって、それは不利益だ。そこで漢青年を、ソッと幽閉《ゆうへい》して置くことになったのだ。それも普通の方法では、漢青年の疑惑を避けることができないから、あのような面倒な道具建《どうぐだて》をし、彼《か》の青年の知覚を鈍麻《どんま》させて、あの狂言をうったのさ。これは中国人でなければできない用意周到ぶりだよ」
「すると、マリ子という女は、一体どうしたわけのひとなんだね」
「あれは、すこしばかり儲《もう》け仕事をした女にすぎない。無論中国人ではなく、われわれと同じ国籍をもっているんだよ。事件の中に若い女が一人とびだすと、すぐその女が主人公《ヒロイン》になってしまうことが世間には多いが、今度の事件では彼女は一個のワンサ・ガールに過ぎなかった。殺人がなかったことと、それとが、今度の事件の二つの特異性だったとでも、こじつけ迷説《めいせつ》を掲《かか》げて置くかね。はっはっは」



底本:「海野十三全集 第1巻 遺言状放送」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」博文館
   1932(昭和7)年4月号
入力:浦山聖子
校正:土屋隆
2007年8月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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