あたりの風景を見るときのことを考えて、どんなに嬉しいだろうかと、胸をわくわくさせたのだった。
 ところが或日のこと、漢青年は困ったことに出逢ってしまった。それは不図《ふと》彼が、生前|痔疾《じしつ》を病んだことを思い出したのだった。気をつけていると、寝具《しんぐ》や、床の上までもその不快な血痕《けっこん》が、点々として附着しているのを発見した。
 彼は驚いて、マリ子の幻影を呼ぶと、患部《かんぶ》を拭《ぬぐ》わせた。彼女の言葉によると、その痔疾は、かなりひどくなっているそうである。
 それだけならば、漢青年は、我慢をしているつもりだった。ところが彼は問題を惹起《ひきおこ》さずにいられないことになったというのは、幾度《いくたび》もマリ子に、痔の清掃《せいそう》を命じているうちに、いままでのあらゆる彼の暴令に、唯の一度も厭《いや》な顔を見せたことのない彼女が、この痔疾の清掃には極度に眉を顰《しか》めていることに気がついたからであった。
 漢青年は遂に決心をして、家扶《かふ》の孫火庭を呼んで、痔疾《じしつ》の治療をしたいと云った。
 孫は非常に困ったような顔をしたが、
「何分ここは片田舎のことでございますから、杭州へ出まして医師を見つけて来ます間三日間お待ち下さいまし」
 と云った。
「何を措《お》いても、早くせい!」
 漢青年は家扶を激励したのだった。
 それから三日目のことだった。
 孫はニコニコして部屋に入ってくると、痔の医師を連れてきたことを報告したのち、
「この医師は、口が利けず、耳も聞こえませんから、何もお話しなさってはなりませぬぞ」
 と、厳《おごそ》かな顔付をして附加えた。
 そこへ王妖順が、一人の不思議な男を案内してきた。色の褪《あ》せた古い型の長衣を着ていて、いつも口をモグモグさせては、ときどきチュッと音をさせて、真黒い唾を嘔《は》いた。それは多分、よほど噛《か》み煙草の好きな男なのだろう。彼は黴《かび》くさい鞄を開くと、ピカピカ光る手術道具をとりだした。王と孫が、漢青年の衣類を脱がせた。
(マリ子が居てくれればよいのに、マリ子はどこへ行ったのだろう)
 漢青年は、マリ子が今日は少しも顔を見せないのに不審をうった。
 孫と王とが、漢青年の両脚を抑えつけていると、その噛煙草ずきの医師は、メスを探すやら、ガーゼを絞るやらで、ひとりで手《て》ン手古舞《てこまい》をしていた。
 漢青年は、退屈を感じて、医師の顔ばかりみていた。ことにそのよく動く唇を呆《あき》れて眺めていた。
(これは変だな)
 と、漢青年は胸のなかで呟《つぶや》いた。寝台の下でガーゼを絞《しぼ》っている医師の目は、何事かを彼に訴えるかのように、動いていた。そこの場所では、漢青年の脚を抑えている孫と王の視線が、全く届かないところだった。
 怪しい医師は、警告の目付をしたあとで、唇をビクビクと動かせた。
 漢青年は、しばらくその唇の動くのを見ていたが、
(呀《あ》ッ)
 とばかりに、心中驚いた。それというのが、この怪しい医師の唇は、煙草を噛んでいると見せかけて、唇の運動がモールス符号をうっているのだった。それを一々判読して綴《つづ》ってみると次のような文句になった。
「シュジュツゴ、ガーゼヲトッテ、テガミヲミヨ」
「手術後、ガーゼを取って、手紙を見よ」この信号は、繰返《くりかえ》し発信されたのだった。
 口の利けず、耳の聞えない医師は、最後に大きいガーゼをあてて、その周囲を絆創膏《ばんそうこう》で止めると、遂に一語も発しないで、部屋を出ていった。孫も王も、医師を見送るためにこの室から出た。
 漢青年にとって、チャンスは今だった。
 彼は手を伸ばすと、ガーゼを掴んだ。手を動かす練習をもうすこし遅く始めたのだったら、彼はこのチャンスを、むざむざと逃《の》がしたかも知れないのだ。
 ガーゼの中には、果して小さく折った紙片《しへん》が入っていた。彼は口も使って苦心の結果、その手紙というのを開くことに成功した。そこには、漢青年の脳髄を痺《しび》らせるほどの重大なことがらが認《したた》めてあった。
「今夜、電燈の消えるのを合図に、天井の硝子《ガラス》板を破って、脱《のが》れいでよ」
 漢青年は、三度ほど読みかえすと、その紙片を丸めて、ポンと口の内へ入れて、呑みこんだ。
 脱走せよ、という者がある。何者とも知れない。しかしこれも「死後の世界」に於ける幻想であろうか。
 これが生きているのだったら、軽々しい行動は考えなければならない。しかし、どうせ死んでいるものなら、二度と死ぬことはないだろう。無聊《ぶりょう》に困っている自分のことだ。ではやっつけろ――漢青年は決心した。
 だが、今はまだ日中《にっちゅう》である。西湖の方を眺めると、湖面がキラキラと光っている。屋根の硝子天井
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