った。彼の男らしい容姿と、豊かなポケット・マネーは、どの店でも女給達をワッワッと騒がせずには置かなかった。
 彼は、孫火庭の忠言も、どこに吹くかというような顔をして、毎日毎夜、東京中をとびまわるのに夢中だった。彼は遂《つい》に一台の高級クーペを買いこむと、簡単に乙種《おつしゅ》運転手の免状をとり、その翌日からは、東京市内は勿論のこと、横浜の本牧海岸《ほんもくかいがん》、さては鎌倉から遠く小田原あたりへまでもドライブした。その結果、彼は知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に、スピード狂になっていた。時速四十|哩《マイル》などは、お茶の子サイサイであった。警視庁の赤オートバイに追駆《おいか》けられたこともしばしばだったが、彼はいつも、鼻先でフフンと笑うと、時速六十五|哩《マイル》という砲弾のようなスピードで、呀《あ》っという間に赤オートバイを豆粒位に小さくすることが慣例であって、その度毎に彼は鼻を高くした。
 恰度《ちょうど》そのころ、彼には鳥渡《ちょっと》気懸《きがか》りな事件が生じた。それは家扶《かふ》の孫火庭《そんかてい》が、一週間ばかりというものは、行方不明になったことだった。彼に行かれては、漢青年は浮木《ふぼく》にひとしかった。非常に心配して、行く末をいろいろと思い煩《わずら》っているところへ、孫火庭がヒョックリ帰ってきた。帰るには帰ってきたが、彼は二人の中国人を連れてきた。一人は、王妖順《おうようじゅん》といって、孫と似たりよったりの年頃で、もう一人は始めからマリ子と呼ぶ、まだ十七八の少女だった。彼等は外《ほか》へ宿をとるという風もなく、カフェ・ドラゴンに寝泊りするようになり、王は毎日外出して夜遅く帰って来る。一方マリ子と呼ぶ少女は、ドラゴンの女給となったのだった。
 そんなことは、漢青年にとって大した問題ではなかった。困ったのは、孫の鼻息が、急に荒くなったことだった。彼はことごとに文句を云った。そうかと思うと、彼は数回に亙《わた》って、心霊実験会へひっぱって行った。そこで、漢青年はいく人《にん》となく、死んだ知友《ちゆう》の霊と話をした「死後の世界」というものが、なんだか実在するように感ぜられて来たのだった。
 漢青年は「死」という問題に、段々と恐怖を覚えずには居られなかった。人間は、死んだ後《のち》でも、死んだことを意識しないでいるものだということが、心霊実験会の多くの実例によって、判ってきたのだった。そのことは一層、漢青年を脅《おびや》かした。彼は、京浜国道《けいひんこくどう》を六十|哩《マイル》のスピードで走っていて、時々通行人を轢《ひ》いたり、荷車に衝突して自分も相当の怪我をしたことが何回もあったことを顧《かえり》みて慄然《りつぜん》とした。ひょっとすると、あのうちのどの事件かで以て、自分は既に死んでしまったのではなかったか。
 そうした不安が、心の片隅に咲きだすと、見る見るうちに空を蔽《おお》う嵐雲《らんうん》のように拡がっていった。彼は異常の興奮に発汗《はっかん》しながら、まず胸部を抑《おさ》えるのだった。それから、幅の広い帯を探し、臀部《でんぶ》を撫《な》で、頭髪《かみ》に触れてみた。もしや指の先に、大竹女史の身体が触ったなら、そのときは万事休すといわなければならない。
 いやいや、霊媒《メディウム》は、大竹女史に限ったことはないのだ。中には、男の霊媒もあることだった。どの霊媒を通じて、自分の霊魂が、娑婆《しゃば》を訪問するかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。このごろでは自動車の運転も控え目にして、温和《おとな》しく、閉籠《とじこも》っている自室を出ると孫を呼んで、自分が生きているかどうかを、尋《たず》ねてみた。
 孫の言葉だけでは物足りないときは、マリ子を呼んで、身体の一部に触《さわ》らせた。それでも自信が得られないときは、気が変になったようになって、深夜《しんや》の街を彷徨《ほうこう》し、逢う人逢う人に、自分が生きているかどうかを判定してくれるように頼むのだった。人々は誰もこの男を同情したり、恐ろしがったりした。
 帆村探偵との出会《であい》も、その発作中《ほっさちゅう》の出来事だった。
 だが、その内に、いよいよ本当の運命の日が来てしまった。
 ハッキリした記憶はない。何年何月何日だったかも知らない。漢青年が不図《ふと》眼を醒《さ》ますと、彼は見慣れぬ寝床《ねどこ》に睡っていたことを発見したのだった。明るい屋根の下の室《へや》だった。グルリと見廻わすと、五間四方位の室だった。室内の調度は……。
「おおッ」
 と彼は叫んだ。よく見ると、いちいち、古い記憶のある調度ばかりだった。鶯色《うぐいすいろ》の緞子《どんす》の垂幕《たれまく》、「美人戯毬図《びじんぎきゅうず》」とした壁掛《か
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