た。青年は唇を噛んだ。
「御覧遊ばしませ。王もマリ子も、貴方様の幻想につれて、これから御意のままの御仕《おつか》えを致すでございましょう。それからあの小窓から、外をお眺めなさいませ、楚提《そてい》が長く連《つらな》っているのが見えます」
漢青年は、気がつくと、いつの間にか窓辺《まどべ》によっていた。そこから、西湖《せいこ》の風光が懐しく彼の心を打った。こうして、漢青年の幻想生活が始まった。
彼は、思い出したように食事をした。死んだものが食事をするとは、変ではないかと考えた。
「それは幻影だ。食事は永い間の習慣だ。そのような種類の幻影は、中々消えるものではない」どこかで、そう囁《ささや》く者があるようだった。
漢青年は、幻影を自由に楽しんだ。殊《こと》に彼にとって好ましかったのは、マリ子を傍近く呼んで、他愛のない話をしたり、その果《はて》には思切った戯《たわむ》れを演じてみるのだったが、マリ子はどんなひどいことにも反抗しないで、あらゆる彼の欲するところに従った。反抗のない生活――そこにも漢青年は、幽界《ゆうかい》らしい特徴を発見した。
だが、それにも倦《あ》きてくると、彼はあらゆるものに注意を向けた。ことに彼を喜ばせたものは、音響だった。どんな微《かす》かな音響であっても、彼は見遁《みのが》すことなく、その音響が何から来るものであるかについて、考えるのが楽しみになった。ことに、どうしたわけか、この楼台《ろうだい》が震動すると共に起る音響に対して、興味がひかれたのだった。うっかりしているときには、それを東京時代に経験した自動車の警笛《けいてき》のように聞いたり、或いは又、お濠《ほり》の外に重いチェーンを降ろす浚渫船《しゅんせつせん》の響きのようにも聞いた。しかし、のちになって、それと気がつき、苦笑がこみあげてくるのだった。この杭州の片田舎に、円タクの警笛の響きもないものである。
そのうちに彼は、知覚のまるで無い他人の手足のような四肢を、意のままに少しずつ動かすことを練習にかかった。それは彼の視覚の援助によって段々と正確に動いて行った。それは非常に大きい喜びに相違なかったのである。
この調子で身体がうまく動くようになったら、彼は何に措《お》いても、この天井の硝子《ガラス》板をうち破り、その孔《あな》から、楼上《ろうじょう》へ出てみたいと思った。そして広々とした
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