べが》けの刺繍《ししゅう》、さては誤って彼が縁《ふち》を欠《か》いた花瓶までが、嘗《かつ》て覚えていたと同じ場所に、何事もなかったかのように澄しかえって並んでいたのだった。すると、この室は?
「これは、故郷の杭州に建っている鳴弦楼《めいげんろう》だ。少年時代に遊びくらした部屋ではないか、おお、あすこには、懐《なつか》しい小窓《こまど》がある。あの外には絵のように美しい西湖《せいこ》が見えるのだ。見たい、見たい、生れ故郷の西湖を!」
 漢青年はムックリ起きようとして、ハッと顔色をかえた。手が無い、足も無いのだ。いや身体全体が無いのだ。「おお、これはどうしたことだ」
 彼は、気が変になったようになって、あたりを見廻した。室内の光景に、不思議はなかった。そして、いや、あった。あった。寝床の上に、彼の足が、長々と横たわっていた。胴もある。おお、手も見えるではないか。
 彼は、再び起きようと試みた。
 だが、驚いたことに、眼でみると、そこに在るに違いない手だの脚だのが、動かそうとなると、俄《にわ》かに消えてなくなったように感じられるのだ。言葉を変えていうと、全身にすこしも知覚が無いとでも言おうか、いや、それとも少し違うようだ。
 気がつくと、枕頭《まくらもと》に人間が立っている。見ると一人ではない。三人だった。
 その顔には、覚えがあった。中国服に身を固めた孫火庭と王妖順だった。もう一人はピカピカする水色の絹で拵《こしら》えた婦人服のよく似合うマリ子だった。
「これは一体何事だい」
 と漢青年は呶鳴《どな》った。
「貴方様は、遂《つい》に亡《な》くなられました」
 と孫が、いつになく穏《おだや》かな口調《くちょう》で云った。
「莫迦《ばか》を云うな。お前達がよく見えている」
「貴方様はお気付になりませんか」孫は顔を一尺ほどに近づけて云うのだった。「貴方様は京浜国道で、自動車を電柱に衝突なさいまして、御頓死《ごとんし》遊ばしましたのですぞ。貴方様は幽界《ゆうかい》にお入りになって、唯今《ただいま》から幻影《げんえい》を御覧になっています。われわれも、貴方様の霊のうちにのこる一個の幻影にすぎません。お疑いならば、お手をお触れ下さい」
 そう云って孫は、漢青年の手をとった。彼は自分の手がスウと持上って、孫火庭の身体を撫でているのを見た。しかし孫がそこにいることは、全く感ぜられなかっ
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