きに、鳴弦楼《めいげんろう》と呼ばれるこの高塔は、望遠鏡の力を借りて四十里|彼方《かなた》に蟻の動くのも手にとるように判ったことだろうし、よしんば敵軍がこの塔下に迫って、矢を射かけても、あたりは十尺もあろうという厚い壁体《へきたい》だし、開いている窓はたった一つであるから、一筋の矢を送りこむことも不可能だったことだろう。そこに先祖《せんぞ》の用心があったかもしれないのだった。
だが、今となっては、呪《のろ》いの小窓以外の、何ものでもない。
「もっとも、私はもう死んでいる身なのだ」
漢于仁は、そこで大きな溜息《ためいき》を一つついたのだった。
帆村探偵が、漢于仁の顔を見たらば、どんなに驚くことだろう。それは、いつか鼠坂《ねずみざか》の心霊《しんれい》実験会で逢い、それからのち、真夜中の銀座裏で突飛《とっぴ》な質問を浴せかけたあの神田仁太郎という怪青年に瓜二つの顔だったから。しかし、あれは日本での出来ごとだった。ここは疑いもなく、西へ五百里も距《へだ》った中華民国は浙江省《せっこうしょう》での話だった。
漢青年は、またいつものように、あの不思議な日以来の出来事を復習し、隅から隅まで緻密《ちみつ》な注意を走らせてみるのだった。
その頃、彼は故郷の杭州を亡命して、孫火庭《そんかてい》という家扶《かふ》と共に、大日本の東京に、日を送っていた。日本へ渡ったときは、まだ小さい少年だったので、日本語を覚えるのに余り苦労をしなかった。彼はいつしか、家扶の孫火庭がつけてくれた日本名の神田仁太郎という名を愛していた。孫火庭自身も日本人らしく曽我貞一と名乗って、中国人らしい顔色を何処かに振りおとしていた。
二人の生活は、出来るだけ質素《しっそ》を旨《むね》とした。孫火庭は、中国料理のコックと称して、方々の料理店を渡りあるいた。そのとき、漢少年を自分の甥《おい》だと称して、一緒につれあるいたのだった。
この数年は、丸の内のお濠《ほり》近くにあるカフェ・ドラゴンを買いとって、二人は行いすましていた。漢于仁《かんうじん》は少年期をとびこして、いつしか立派な青年となっていた。そしてその瀟洒《しょうしゃ》たる風采《ふうさい》と偉貌《いぼう》とは、おのずから貴人《きじん》の末《すえ》であることを現わしているかのようであった。彼は、いつとなく、銀座や新宿のカフェ街に出入することを覚えてしま
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