奮してその場に立ちあがろうとするのを、隣席の老人は笑いながら後から抱きついて止めた。
「呀《あ》ッ、これは女の身体だッ。女の身体だッ。おお、わしの身体を、何処へやった。わしの身体をかえせ!」
 女史は、裾《すそ》の乱《みだ》れるのも気がつかず、われとわが身を、かき※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》った。
「先生、合点《がてん》がゆかれましたか」曽我貞一が憎いほど落付いた態度で云った。「先生の身体は、もう亡くなっているのです。それは、先生の霊を生前《せいぜん》の世《よ》へお迎えするために使っている霊媒《メディウム》の御婦人の身体なのです。お判りですか」
「なに、霊媒《メディウム》? これはわしの魂が乗り移っている霊媒の婦人の肉体だというのか。ああ……」女史は頭をかかえて、其の場に俯《うつむ》いた。やがてその下から泣き声が洩《も》れてきた。獣《けだもの》の叫びごえに似た怪しい響をもった泣き声だった。
「ああ、いつの間にか、わしは死んでいた!」
 女史は、慨《なげ》きのあまりか、容易に身が起せないようであった。
「どうです。今日は、その辺で止《や》めておいては……」隣席の老人が、二人に注意した。
 曽我貞一は、連れの神田の興奮に青ざめたような顔をチラリと見たうえで、老人に、止めることを頼んだ。
 老人は、再び大竹女史の前に膝をつくと、何やら呪文《じゅもん》のようなものを唱え、女史の額のへんを二三度、撫でるようにした。
 女史は、元の女らしさに立帰って、静かに上体を起した。そしてケロリとした顔で、一座を眺めると、やや気まり悪そうに、はだけた前をかきあわせたのだった。
 二人の背広男は、このとき丁寧《ていねい》なお辞儀をすると、席を立った。場慣《ばな》れているらしく、始終《しじゅう》ベラベラ喋《しゃべ》った曽我貞一という男、それに反して一語も発しないで、唯《ただ》興奮に青ざめていたような神田仁太郎と呼ばれた若い方の男――帆村はそれをぼんやりと見送っているような顔付をしていたが、その実、彼の全身の神経は、網膜《もうまく》の裏から、機関銃を離れた銃丸《たま》のように、両人目懸けて落下していたのだった。
     *   *   *
「そのときの若い方のが、昨夜、銀座裏で逢った彼《あ》の男なのさ」帆村は、抽出《ひきだし》のなかから新しいホープの紙函《かみばこ》を
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