わって応接室に坐っているのを見て愕いた。
「この前の一件は、どうしたですか」
 と、博士はそっとたずねた。
「ああ、生きている腸《はらわた》のことだろう。あれはいずれ発表するよ、いひひひ」
「一件は何日ぐらい動いていましたか」
「あはっ、いずれ発表する、だがね熊本君。腸《はらわた》というやつは感情をあらわすんだね。なにかこう、俺に愛情みたいなものを示すんだ。本当だぜ。まったく愕いた。――時にあれは、なんという囚人の腸《はらわた》なんだ。教えたまえ」
「……」
 博士は返答をしなかった。
 いつもの吹矢だったら、博士が返答をしなかったりすると、頭ごなしにきめつけるのであるが、その日に限り彼はたいへんいい機嫌らしく、頤をなでてにこにこしている。
「それからね、熊本君。ホルモンに関する文献をまとめて、俺にくれんか。――ホルモンといえば、この病院にいた例の美人の交換手はどうした。二十四にもなって、独身で頑張っていたあの娘のことだよ」
 と、吹矢は変にいやらしい笑みをうかべて熊本博士の顔をのぞきこんだ。
「あ、あの娘ですか――」
 博士は、さっと顔色をかえた。
「あの娘なら、もう死にましたよ、盲腸炎でね、だ、だいぶ前のことですよ」
「なあんだ、死んだか。死んだのなら、しようがない」
 吹矢は、とたんにその娘のことに興味を失ったような声をだした。そしてまた来るといって、すたすたと室を出ていった。
 その夜更けの午前一時。
 医学生吹矢隆二は、ようやく八日目に、自宅の前に帰ってきた。
 彼はおもはゆく、入口の錠前に鍵をさした。
(すこし遊びすぎたなあ。生きている腸《はらわた》――そうだチコという名をつけてやったっけ。チコはまだ生きているかしら。なあに死んでもいいや。とにかく世界の医学者に腰をぬかさせるくらいの論文資料は、もう十分に集まっているからなあ)
 彼は、入ロの鍵をはずした。
 そして扉をひらいて中に入った。
 ぷーんと黴くさい匂いが、鼻をうった。それにまじって、なんだか女の体臭のようなものがしたと思った。
(おかしいな)
 室内は真暗だった。
 彼は手さぐりで、壁のスイッチをひねった。
 ぱっと明りがついた。
 彼は眩しそうな眼で、室内を見まわした。
 チコの姿は、テーブルの上にもなかった。
(おや、チコは死んだのか。それとも隙間から往来へ逃げ出したのかしら)
 と思ったが、ふと気がついて、出かけるときにチコのために作っておいた砂糖水のガラス鉢に眼をやった。
 ガラス鉢の中には、砂糖水がまだ半分も残っていた。彼は愕きの声をあげた。
「あれっ、今ごろは砂糖水がもうすっかりからになっていると思ったのに――チコのやつどうしやがったかな」 
 そういった刹那の出来事だった。
 吹矢の目の前に、なにか白いステッキのようなものが奇妙な呻り声をあげてぴゅーっと飛んできた。
「呀《あ》っ!」
 とおもう間もなく、それは吹矢の頸部にまきついた。
「ううっ――」
 吹矢の頸は、猛烈な力をもって、ぎゅっと締めつけられた。彼は虚空をつかんでその場にどっと倒れた。
 医学生吹矢の死体が発見されたのは、それから半年も経ってのちのことであった。一年分ずつ納めることになっている家賃を、大家が催促に来て、それとはじめて知ったのだ。彼の死体はもうすでに白骨に化していた。
 吹矢の死因を知る者は、誰もなかった。
 そしてまた、彼が残した「生ける腸《はらわた》チコ」に関する偉大なる実験についても、また誰も知る者がなかった。
「生ける腸《はらわた》」の実験は、すべて空白になってしまった。
 ただ一人、熊本博士は吹矢に融通した「生ける腸《はらわた》」のことをときおり思いだした。実はあの腸《はらわた》はどの囚人のものでもなかったのである。
「生ける腸《はらわた》」はいったい誰の腹腔から取り出したものであろうか。
 それは○○刑務病院につとめていた二十四歳の処女である交換手のものであった。彼女は盲腸炎で亡くなったが、そのとき執刀したのは熊本博士であったといえば、あとは説明しないでもいいだろう。
 処女の腹腔から切り放された「生きている腸《はらわた》」が医学生吹矢の首にまきついて、彼を殺したことは、彼の死をひそかに喜んでいる熊本博士もしらない。
 いわんや「生ける腸《はらわた》」のチコが、吹矢と同棲百二十日におよび、彼に非常なる愛着をもっていたこと、そして八日目にかえってきた彼の声を開き、嬉しさのあまり吹矢の首にとびつき、不幸にも彼を締め殺してしまった顛末などは、想像もしていないだろう。
 あの「生きている腸《はらわた》」が、まさかそういう女性の腸《はらわた》とは気がつかなかった医学生吹矢隆二こそ、実に気の毒なことをしたものである。



底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
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