さい泡がたった。
 吹矢隆二は、大きな画板みたいなものを首から紐でかけ、そして鉛筆のさきをなめながら、電流計や比重計や温度計の前を、かわるがわる往ったり来たりして、首にかけた方眼紙の上に色鉛筆でもってマークをつけていった。
 赤と青と緑と紫と黒との曲線がすこしずつ方眼紙の上をのびてゆく。
 そうしているうちにも、彼はガラス管の前に小首をかたむけ、熱心な眼つきで、蠕動をつづける腸《はらわた》をながめるのであった。
 彼は文字通り寝食を忘れて、この忍耐のいる実験を継続した。まったく人間業とはおもわれない活動ぶりであった。
 今朝の六時と、夕方の六時と、この二つの時刻における腸《はらわた》の状況をくらべてみると、たしかにすこし様子がかわっている。
 さらにまた十二時間経つと、また何かしら変った状態が看取されるのであった。
 実験がすすむにつれ、リンゲル氏液の温度はすこしずつのぼり、それからまたリンゲル氏液の濃度はすこしずつ減少していった。
 実験第四日目においては、腸《はらわた》を収容しているガラス管の中は、ほとんど水ばかりの液になった。
 実験第六日目には、ガラス管の中に液体は見えずになり、その代りに淡紅色のガスがもやもやと雲のようにうごいていた。
 ガラス管の中には、液のなくなったことを知らぬげに、例の腸《はらわた》はぴくりぴくりと蠕動をつづけているのであった。
 医学生吹矢の顔は、馬鹿囃の面のように、かたい笑いが貼りついていた。
「うふん、うふん。いやもうここまででも、世界の医学史をりっぱに破ってしまったんだ。ガス体の中で生きている腸《はらわた》! ああなんという素晴らしい実験だ!」
 彼はつぎつぎに新らしい装置を準備しては古い装置をとりのけた。
 実験第八日目には、ガラス管の中のガスは、無色透明になってしまった。
 実験第九日目には、ブンゼン燈の焔が消えた。ぶくぶくと泡立っていたガスが停った。
 実験第十日目には、モートルの音までがぴたりと停ってしまった。実験室のなかは、廃墟のようにしーんとしてしまった。
 ちょうどそれは、午前三時のことであった。
 それからなお二十四時間というものを、彼は慎重な感度でそのままに放置した。
 二十四時間経ったその翌日の午前三時であった。彼はおずおずとガラス管のそばに顔をよせた。
 ガラス管の中の腸《はらわた》は、今や常温湿度[#底本では「常温常湿度」]の大気中で、ぐにゃりぐにゃりと活撥な蠕動をつづけていた。
 医学生吹矢隆二は彼の考案した独特の訓練法により、世界中のいかなる医学者も[#底本では「いかなる医学生も」]手をつけたことのなかったところの、大気中における腸《はらわた》の生存実験についに成功した[#底本では「生存実験について成功した」]のであった。

     同棲生活

 医学生吹矢は、目の前のテーブルの上に寝そべる生ける腸《はらわた》と、遊ぶことを覚えた。
 生ける腸《はらわた》は、実におどろいたことに、感情に似たような反応をさえ示すようになった。
 彼はスポイトで[#底本では「彼がスポイトで」]もって、すこしばかりの砂糖水を、生ける腸《はらわた》の一方の口にさしいれてやると、腸《ちょう》はすぐ活撥な蠕動をはじめる。そして間もなく、腸《ちょう》の一部がテーブルの上から彼の方にのびあがって、
「もっと砂糖水をくれ」
 というような素振りを示すのであった。
「あはあ、もっと砂糖水がほしいのか。あげるよ。だが、もうほんのちょっぴりだよ」
 そういって吹矢は、また一滴の砂糖水を、生ける腸《はらわた》にあたえるのだった。
(なんという高等動物だろう)
 吹矢はひそかに舌をまいた。
 こうして、彼が訓練した生ける腸《はらわた》を目の前にして遊んでいながらも、彼は時折それがまるで夢のような気がするのであった。
 前から彼は、一つの飛躍的なセオリーをもっていた。
 もしも腸《はらわた》の一片がリンゲル氏液の中において生存していられるものなら、リンゲル氏液でなくとも、また別の栄養媒体の中においても生存できるはずであると。
 要は、リンゲル氏液が生きている腸《はらわた》に与えるところの生存条件と同等のものを、他の栄養媒体によって与えればいいのである。
 そこへもっていって[#底本では「そこにもっていって」]彼は、人間の腸《はらわた》がもしも生きているものなら、神経もあるであろうしまた環境に適応するように体質の変化もおこり得るものと考えたので、彼は生ける腸《はらわた》に適当な栄養を与えることさえできれば、その腸《はらわた》をして大気中に生活させることも不可能ではあるまい――と、机上で推理を発展させたのである。
 そういう基本観念からして、彼は詳細にわたる研究を重ねた。その結果、約一年前になってはじめて自
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング