が、ふと気がついて、出かけるときにチコのために作っておいた砂糖水のガラス鉢に眼をやった。
ガラス鉢の中には、砂糖水がまだ半分も残っていた。彼は愕きの声をあげた。
「あれっ、今ごろは砂糖水がもうすっかりからになっていると思ったのに――チコのやつどうしやがったかな」
そういった刹那の出来事だった。
吹矢の目の前に、なにか白いステッキのようなものが奇妙な呻り声をあげてぴゅーっと飛んできた。
「呀《あ》っ!」
とおもう間もなく、それは吹矢の頸部にまきついた。
「ううっ――」
吹矢の頸は、猛烈な力をもって、ぎゅっと締めつけられた。彼は虚空をつかんでその場にどっと倒れた。
医学生吹矢の死体が発見されたのは、それから半年も経ってのちのことであった。一年分ずつ納めることになっている家賃を、大家が催促に来て、それとはじめて知ったのだ。彼の死体はもうすでに白骨に化していた。
吹矢の死因を知る者は、誰もなかった。
そしてまた、彼が残した「生ける腸《はらわた》チコ」に関する偉大なる実験についても、また誰も知る者がなかった。
「生ける腸《はらわた》」の実験は、すべて空白になってしまった。
ただ一人、熊本博士は吹矢に融通した「生ける腸《はらわた》」のことをときおり思いだした。実はあの腸《はらわた》はどの囚人のものでもなかったのである。
「生ける腸《はらわた》」はいったい誰の腹腔から取り出したものであろうか。
それは○○刑務病院につとめていた二十四歳の処女である交換手のものであった。彼女は盲腸炎で亡くなったが、そのとき執刀したのは熊本博士であったといえば、あとは説明しないでもいいだろう。
処女の腹腔から切り放された「生きている腸《はらわた》」が医学生吹矢の首にまきついて、彼を殺したことは、彼の死をひそかに喜んでいる熊本博士もしらない。
いわんや「生ける腸《はらわた》」のチコが、吹矢と同棲百二十日におよび、彼に非常なる愛着をもっていたこと、そして八日目にかえってきた彼の声を開き、嬉しさのあまり吹矢の首にとびつき、不幸にも彼を締め殺してしまった顛末などは、想像もしていないだろう。
あの「生きている腸《はらわた》」が、まさかそういう女性の腸《はらわた》とは気がつかなかった医学生吹矢隆二こそ、実に気の毒なことをしたものである。
底本:「十八時の音楽浴」早川文庫、早川書房
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