目の乗客は全部、外に追いだされた。


     3


 駆けつけた附近の医者は、電車の床《ゆか》の上に転《ころが》った美少女に対して、施《ほどこ》すべき何の策《すべ》をももたなかった。というのは、彼女の心臓の上部が、一発の弾丸によって、美事《みごと》射ちぬかれていたから。弾丸は左背部の肋骨にひっかかっているらしく、裸にしてみた少女の背中には弾丸の射出口《しゃしゅつぐち》が見当らなかった。「銃丸《じゅうがん》による心臓貫通――無論、即死《そくし》」と医者は断定した。
 惨死体《ざんしたい》を乗せた電車は、そのまま回避線《かいひせん》へひっぱり込まれ、警視庁からは大江山捜査課長一行が到着し、検事局からは雁金《かりがね》検事の顔も見え、係官の揃うのを待ち、電車をそのまま調室《しらべしつ》にして取調べが始まった。
 大江山警部は、やや青ざめた神経質らしい顔面を、ピクリと動かして、専務車掌の倉内銀次郎を招いた。
「倉内君、君に判っている一と通りを話してきかせ給え」
「ハァ、それはこうなんです」と彼は、係官の前の小机《こづくえ》の上に、線路図や、電車内の見取図を拡《ひろ》げて、彼が乗客の注意で、殺人の現場にかけつけてのちに見た事柄や、乗客から聞いたそれ以前の話など、既に読者諸君が御存知の事実を述べた。
「君は、事件の起ったときに、どの位置に居たかネ」大江山警部は訊問《じんもん》した。
「ハッ、やはりあの第四輌目に居りましたが、車掌室が別になっているもんで、早く気がつきませんでした」
「君は車掌室のどの辺に居たか」
「右側の窓のところに頭部を当てて立って居りました」
「事件の前後と思われるころ、何かピストルらしい音響をきかなかったか」
「電車の音が騒々《そうぞう》しいもので聞きとれませんでした」
「君は窓外の暗闇《やみ》に何かパッと光ったものを認めなかったかい」
「ハッそれは……別に」
「君の位置から車内が見えていたか」
「見えていません。カーテンが降りていましたから……」
「車内へ入ってから、銃器から出た煙のようなものは漂《ただよ》っていなかったか」
「御座いませんでした」
「車内の乗客は何人位で、男女の別はどうだった」
「サア、三十名位だったと思います。婦人乗客が四五人で、あとは男と子供とでした」
「その車の定員は?」
「百二名です」
「これは参考のために答えて貰いたいんだが、あの際、銃丸は車内で発射されたものか、それとも車外から射ちこんだものか、何《いず》れであると思うかね、君は」
 大江山警部が、少女の射ち殺された頃の事情を一向|弁《わきま》えぬ専務車掌に、こんなことを聞くのは、愚問の外のなにものでもないと思われた。
「車内で射ったんでしょうと思います」
 専務車掌の倉内は、警部の愚問に匹敵《ひってき》するような愚答《ぐとう》を臆面《おくめん》もなくスラリと述べた。
「じゃ君は何故、あの車輌に居た乗客を拘束《こうそく》して置かなかったのか」
「……只今《ただいま》になってそう気が付いたもんですから」
「そう思う根拠は、なにかね」
「別に根拠はありませんが、そんな気がするんです」
「それでは仕方がないね。なんだったら、ここに居られるあの時の乗客有志を一時退場ねがった上で、君の考えをのべて貰ってよいが……」
 車内に居た乗客の多くは、事件に係合《かかわりあい》になるのを厭《いや》がったものと見え、死人電車が目黒駅のプラットホームに着くと、バラバラ散らばってしまい、このところまで随《つ》いてきたのは僅か二人だった。その一人は、左手を少女の血潮で真赤に染めた商人|体《てい》の四十男で、もう一人は探偵小説家の戸浪三四郎だった。
「ばば馬鹿を言っちゃいかん」と其の商人体の男が、たまり兼ねて口を差入れた。「いま聞いてりゃ、車内の者が射ったということだが君が出て来たのは随分経ってからじゃないか。そんなに後《おく》れ走《ば》せに出てきて何が判るものか。第一、あたしはあの車内に居たが、ピストルの音をきかなかった。ね、あなたも聞かなかったでしょう」と戸浪三四郎の方を振りかえった。
 戸浪は黙って軽く肯《うなず》いた。
「ほら御覧なせえ、鉄砲|弾《だま》は窓の外から飛んできたのに違《ち》げえねえ。あまり根も葉もないことを言って貰いたかねえや。手前《てめえ》の間抜けから起って、多勢《おおぜい》の中からコチトラ二人だけがこうして引っ張られ、おまけに人殺しだァと証言するなんて、ふざけやがって……」
「これ林三平さん、静かにしないか」と、車掌に喰ってかかろうとする商人体の男を止めたのは、大江山警部だった。「戸浪三四郎さんから何か別な陳述《ちんじゅつ》を承《うけたまわ》りたいですが」
「僕はすこし意見を持っています。先刻《せんこく》申しあげたように探偵小説家という立場から僕は申すので、或いは実際と大いに違っているかも知れません。僕は殺された美少女、――一宮《いちみや》かおるさんと云いましたかネ、かおるさんの直ぐ向いに居たのですが、確かにピストルの爆音を耳にしませんでした。ですが、ちょっと耳に残る鈍《にぶ》い音をきいたんです。さよですなア、空気をシュッと切るような音です。きわめて鈍い、そして微《かす》かな音でした。これはどうやら右の耳できいたのです。右の耳というと、電車の進行方面の側の耳です。その行手には、倉内君の居られた車掌室があります。またその右の耳のある隣りには二尺ほど離れて、日本髪の婦人が腰をかけて居りました。そんなことから思い合わせると、弾丸《たま》は僕の身体より右側の方からとんで来たと思われます。林さんは僕よりずっと左手に居られたので関係はないようです。車内で射ったとすれば、私も嫌疑者《けんぎしゃ》の一人でしょうが、僕より右手にいた連中も同時にうたがってみるべきでしょう。日本髪の婦人は勿論のこと、失礼ながら倉内車掌君も同類項《どうるいこう》です」
「すると貴方は、車内説の方ですか」と大江山警部が尋ねた。
「いえ、寧《むし》ろ僕は車外説をとります。弾丸《たま》は車外から射ちこまれ、例の日本髪の婦人と僕との間をすりぬけて、正面に居た一宮かおるさんの胸板《むないた》を貫《つらぬ》いたのです。シュッという音は、銃丸《じゅうがん》が僕の右の耳を掠《かす》めるときに聞こえたんだと思います」
「もう外に聞かしていただくことはありませんか」
「現場に居た人間としては、もう別にありません。老婆心《ろうばしん》に申上げたいことは、あの現場附近を広く探すことですな。もしあの場合|銃丸《たま》が乗客にあたらなかったとしたら、銃丸は窓外へ飛び出すだろうと思うんです。いや、そんな銃丸が既に沢山落ちているかもしれません。そんなものから犯人の手懸りが出ないかしらと思います。屍体《したい》もよく検《しら》べたいのですが、何か異変がありませんでしたか」
「いや、ありがとう御座いました」と警部は戸浪三四郎の質問には答えないで、彼の労を犒《ねぎら》った。


     4


 大江山捜査課長は、警視庁の一室で唯《ただ》ひとり、「省線電車射撃事件」について、想念を纏《まと》めようと努力していた。
 戸浪三四郎が「一宮かおるの屍体に異常はないか」と聞いたのは炯眼《けいがん》だった。屍体の纏《まと》っていた衣服の左ポケットに、おかしな小布《こぬの》が入っていた。それは丁度《ちょうど》シャツの襟下《えりした》に縫いつけてある製造者の商標《しょうひょう》に似て、大きさは三センチ四方の青い小布で、中央に白い十字架を浮かし、その十字架の上に重ねて赤い糸で、横向きの髑髏《どくろ》の縫いがあった。
 この髑髏の小布《こぬの》はなにを示すものなのだろう。
 お守りなのであろうか、と考えた。あまりに平凡である。
 不図《ふと》思いついたことは、これはある不良少女団の団員章《だんいんしょう》ではないか、と。殺された一宮かおるは、××女学校の校長の愛娘《まなむすめ》だったのであるが、教育家の家庭から不良児の出るのは、珍らしいことではない。かおるは不良少女であったが、仲間の掟《おきて》を破ったために殺された、と見てはどうであろう。
 大江山警部は給仕を呼んで、不良少女|調簿《しらべぼ》をもってこさせると丹念にブラック・リストの隅から隅まで探しまわったが、かおるの名前も、その怪しげな徽章《きしょう》も見つからなかった。そうすると、未検挙の不良団なのであろうか。
 このように考えてくると、銃丸《たま》は車内でぶっぱなされたと考えるのが、本道《ほんどう》である。だが車内でズドンという音を聞いたものがないではないか。それなら消音《しょうおん》ピストルを用いたものと考えてはどうか。
 だが乗客の多くは逃げてしまった。商人と称する林三平と、小説家の戸浪三四郎とを疑うのは最後のことである。車掌の倉内は、たった一人で車掌室《しゃしょうしつ》に居ただけに、すこし弁明がはっきりしない。答弁にすこしインチキ臭いところが無いでもない。彼はピストルの音をきかなかったという。騒音《そうおん》に慣れた彼が、ピストルの音をきかなかったというのであるからそれは本当であろう。
 ところが刑事が出かけて、現場附近の住民に聞き正したところによると、当日夜の十時と十一時との間に爆音をきいたという人間が三人ばかり現れた。そのうちの一人は、現場《げんじょう》に割合い近い踏切の番人だったが、丘陵にひびくほど相当大きい音だったという。但し発砲の音というよりも、自動車がパンクしたような音に近かったという。これは帝都全市のタクシーや自家用自動車につき調査中であるから、二三日のうちに判明するであろう。
 もしそれが発砲の音だったら、車掌の耳はどうかしていたことになりはしまいか。電車の騒音は、車内よりもむしろ車外の方が大きいのだから。専務車掌室の扉《ドア》を細目にひらいて、消音ピストルを打ったと考えてはどうであるか。それでは銃丸《たま》は、かおるの左胸《さきょう》を側面《そくめん》から射つことになる。然《しか》るに彼女の弾丸による創管《そうかん》は、ほんの少し左へ傾いているが、ほとんど正面から真直《まっすぐ》に入っている。これは違う。それでは、電車の進行中、彼は窓から屋根によじ昇り、屋上の欄干《らんかん》に足を入れて真逆《まっさかさま》にぶら下ると丁度《ちょうど》、顔が窓の上枠《うわわく》のところにとどくから、そのまま蝙蝠式《こうもりしき》にぶら下って消音ピストルをうち放つ。それがすむと、何喰《なにくわ》ぬ顔をして車掌室にかえり、室内の騒ぎを始めて知ったような風を装《よそお》って馳けつける。うん、こいつは出来ないことじゃない。車掌倉内銀次郎の身辺《しんぺん》をすこし洗ってみよう。
「コツ、コツ!」と扉《ドア》を叩く者がある。
「よろしい」大江山警部は、扉の方を向いた。扉がスウと開いた。入って来たのは、給仕だった。
「速達でございます」そう云って給仕は、課長の机上《きじょう》に、茶色の大きい包紙のかかっている四角い包を置いて、出て行った。
 警部は、注意して包をひらいてみた。中には、「ラジオの日本」という雑誌の昭和五年十二月号が一冊入っているきりだった。それを取上げてペラペラと頁《ページ》をめくってみると、半頃《なかごろ》に頁《ページ》を折ってあるところがあった。そこを開けると、白い小布《こぬの》が栞《しおり》のように挿《はさ》まっていて、矢印が書いてある。矢印の示すところには赤鉛筆で、傍線《ぼうせん》のついている記事があった。表題は、「無線と雑音の研究」とあり、「大磯《おおいそ》HS生《せい》」という人が書いているのだった。大江山警部にとって、無線の記事は一向ありがたくなかった。彼は雑誌を抛《ほう》りだそうと思ったが、「雑音」という文字が、電車の騒音と関係がありはしまいかと思って、兎《と》に角《かく》、ぽつりぽつりと読みはじめた。直ぐに彼は、見当ちがいだったことに気がついたけれども、その記事は、思ったよりも平易《へいい》である上に、その内容は大江山警部の注
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