の昼間は、アスファルト路面が熱気を一ぱいに吸いこんでは、所々にブクブクと真黒な粘液《ねんえき》を噴《ふ》きだし、コンクリートの厚い壁体《へきたい》は燃えあがるかのように白熱し、隣りの通《とおり》にも向いの横丁《よこちょう》にも、暑さに脳髄を変にさせた犠牲者が発生したという騒ぎだった。夜に入ると流石《さすが》に猛威をふるった炎暑《えんしょ》も次第にうすらぎ、帝都の人々は、ただもうグッタリとして涼《りょう》を求め、睡眠をむさぼった。帝都の外郭《がいかく》にそっと環状《かんじょう》を描いて走る省線電車は、窓という窓をすっかり開き時速五十キロメートルの涼風《りょうふう》を縦貫《じゅうかん》させた人工冷却《フォースド・クーリング》で、乗客の居眠りを誘った。どの電車もどの電車も、前後不覚に寝そべった乗客がゴロゴロしていて、まるで病院電車が馳《はし》っているような有様だった。そんな折柄、この射撃事件が発生した。その第一の事件というのが。
時間をいうと、九月二十一日の午後十時半近くのこと、品川方面ゆきの省線電車が新宿《しんじゅく》、代々木《よよぎ》、原宿《はらじゅく》、渋谷《しぶや》を経《へ》て、エビス駅を発車し次の目黒駅へ向けて、凡《およ》そその中間と思われる地点を、全速力《フル・スピード》で疾走していた。この辺を通ったことのある読者諸君はよく御存知であろうが、渋谷とエビスとの賑《にぎ》やかな街の灯も、一歩エビス駅を出ると急に淋しくなり、線路の両側にはガランとして人気《ひとけ》のないエビスビール会社の工場だの、灯火《ともしび》も洩《も》れないような静かな少数の小住宅だの、欝蒼《うっそう》たる林に囲まれた二つ三つの広い邸宅だのがあるきりで、その間間《あいだあいだ》には起伏のある草茫々《くさぼうぼう》の堤防や、赤土がむき出しになっている大小の崖《がけ》や、池とも水溜《みずたまり》ともつかぬ濠《ほり》などがあって、電車の窓から首をさしのべてみるまでもなく、真暗で陰気くさい場所だった。この辺を電車が馳《はし》っているときは、車内の電燈までが、電圧が急に下りでもしたかのように、スーッと薄暗くなる。そのうえに、線路が悪いせいか又は分岐点《ぶんきてん》だの陸橋《りっきょう》などが多いせいか、窓外から噛みつくようなガタンゴーゴーと喧《やかま》しい騒音が入って来て気味がよろしくない。という地点へ、その省線電車が、さしかかったのだった。
その電車は六輌連結だったが、前から数えて第四輌目の車内に、みなさんお馴染《なじみ》の探偵小説家戸浪三四郎が乗り合わせていた。もし読者諸君がその車輌に同車していたならきっとおかしく思われたに相違《そうい》ない。というのは、戸浪三四郎は『新青年』へ随筆を寄稿してこんなことを云った。
「僕は電車に乗ると、なるべく若い婦人の身近くを選んで座を占める。彼女の生《なま》ぐさい体臭や、胸を衝《つ》くような官能的色彩に富んだ衣裳や、その下にムックリ盛りあがった肢態《したい》などは、日常|吾人《ごじん》の味《あじわ》うべき最も至廉《しれん》にして合理的なる若返《わかがえ》り法である」と。そして、成程《なるほど》戸浪三四郎の向いには、桃色のワンピースに、はちきれるようにふくらんだ真白な二の腕も露《あらわ》な十七八歳の美少女が居て、窓枠に白いベレ帽の頭を凭《もた》せかけ、弾力のある紅い口唇《くちびる》を軽くひらいて眠っていた。それから戸浪三四郎の隣りには、これはなんと水々しく結《ゆ》いあげた桃割《ももわ》れに、紫紺《しこん》と水色のすがすがしい大柄の絽縮緬《ろちりめん》の着物に淡黄色《たんこうしょく》の夏帯をしめた二十歳《はたち》を二つ三つ踏みこえたかと思われる純日本趣味の美女がいた。車内にチラホラ目を覚《さま》している組の連中は、この二人の美しい対照に、さり気ない視線をこっそり送っては欠伸《あくび》を噛みころしていたのだった。
車輪が分岐点《ぶんきてん》と噛み合っているらしくガタンガタンと騒々《そうぞう》しい音をたてたのと、車輌近くに陸橋のマッシヴな橋桁《はしげた》がグオーッと擦《す》れちがったのとが同時だった。乗客は前後にブルブルッと揺《ゆ》られたのを感じた。その躁音《そうおん》と激動に乗せられたかのように、例のワンピースの美少女の身体が前方へ、ツツツーと滑《すべ》った。両膝をもろ[#「もろ」に傍点]に床の上にドサリとつくと、ブラリと下った二本の裸腕で支えようともせず、上体をクルリと右へ捩《よじ》ると、そのままパッタリ、電車の床にうつ伏《ぶ》せになって倒れた。
車内の人々は、少女が居眠りから本眠りとなり、うっかり打転《うちころが》ったのだったと思った。乗客たちは、洋装のまくれあがったあたりから覗いている真白のズロースや、恐いほど真白な太
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