言もいわなかった。老人の知りたいのは、春木君の安否《あんぴ》であったようである。
だが老人は、牛丸少年の話から考えて、春木少年の身の上に危険があることを悟《さと》った。それで春木君に警告するために、なんとか方法を考えたいと、これは牛丸君にも話した。
「ぼくをここから逃がして下さい。そうすればきっと春木君に、あなたの言伝《ことづて》をつたえます」
牛丸はそういった。老人は考えておくといい、その場を去った。彼は奥へ引返し、そして階段を下りていった様子である。
それからしばらくすると、彼はもう一度牛丸の監房の前へやってきた。だがそれは戸倉老人ではなく、本物の小竹さんであった。
牛丸は、おやおやと思った。そして疑問が一つ、ぴょんと湧《わ》いてでた。
(おかしいぞ。戸倉老人は、この口がきけず、耳のきこえない小竹さんに、どういう方法で話を通じて、小竹さんに変装《へんそう》することを承知させたのだろうか)
全くふしぎなことだ。
ひょっとすると、小竹さんは、わざとよそおっているのではあるまいか。そう思った牛丸少年は、空《から》になった食器を渡しながら、小竹さんに話しかけた。すると小竹さんは、首を左右に振り、耳と口とを指さし「自分は口がきけず耳がきこえない」と身ぶりで語って、すぐ立ち去った。
「ふーン。やっぱり小竹さんは、ほんとに口と耳が不自由なのかしら」
牛丸少年は、ため息をついた。
その後も、牛丸はしんぼうづよく、毎回小竹さんに話しかけた。だが小竹さんの態度は同じことであった。
ところが、それから三日目に、思いがけないことが起った。
それは夕食後、小竹さんが食器をあつめにきたときのことだった。牛丸少年が、食べ終ったあとの皿二枚とスープのコップとを、小さい窓口から小竹さんに渡そうとしたとき、あッという間に皿は牛丸の手をすべって――いや、牛丸少年は皿を小竹さんに渡し終ったつもりだったから、手をすべらせたのは小竹さんの方であろう――皿は少年の監房の床に落ちて、小さな破片になってとび散った。牛丸は青くなった。今にも小竹さんから、すごい形相《ぎょうそう》でにらみつけられて怒られるだろうと思った。
小竹さんは、そうしなかった。彼はかぎをだして、監房の戸を開いた。そしてしずかに中へはいって、破片をひろいだした。破片を岡持の中へ拾っているのだった。牛丸はおだやかな小竹さんの態度にますます恐縮《きょうしゅく》して、彼もまた一生けんめいになって破片を拾った。
しばらくしてそれは終った。小竹さんはそのまま立ち上り、外へでた。そして入口に錠をかけりて立ち去った。その小竹さんのおだやかさに、牛丸は始めたいへんに叱られると思っていただけに非常に意外で、小さい窓口から小竹さんのうしろ姿を見送っていた。
そのときであった、彼はうしろから、かるく背中を叩かれた。
[#底本では1字下げしていない]おどろいた、このときは! この監房には自分の外に誰もいないのだ。だから少年はびっくりして、その場にとびあがったのだ。ふりかえった。
「あッ」
「しずかに!」白いきれを頭からすっぽりかぶり、すその方まで長くひいた怪物《かいぶつ》が、子供の声をだした。その白いきれがとれ、中から少年の顔がでた。
「あッ、春木君!」
「牛丸君。よくぶじでいてくれたね」
「ぼくを助けにきてくれたんやな。こんなあぶないところへ、よくきてくれたなあ」二人は、ひしと抱きあい、頬と頬とをおしつけて涙をとめどもなく流した。
どうして春木少年は、このおそろしい山塞にもぐりこんだのか。また、小竹さんが、なぜ春木少年を、そっとこの監房の中へすべりこませたのか。
そのような春木少年の冒険ものがたりは、その夜くわしく、牛丸君に語られた。
また、牛丸君の家がその後、どうなっているかということや学校の話、警察の話、チャン老人殺しの話など、春木君が牛丸君のために話してやることは多かった。
牛丸君の方でも、この山塞に連れてこられてからこっちのことについて語ることが少くなかった。
それらのことがらの中で、読者がまだ知らない話をここで述《の》べたいのであるが、今はそれができない。というのは、今ちょうど、机博士の身の上におそろしい危難が迫っているからである。その方を先に記《しる》さなくてはならない。
罠《わな》くらべ
黄金《おうごん》の糸で四|頭《とう》の竜《りゅう》のぬいとりをしたすばらしくぜいたくなカーテンが、頭目台《とうもくだい》のうしろに垂《た》れている。
台の上には、頭目用の椅子が一つおかれているだけで、人の姿はその上にない。いやこの部屋には今誰もいない。
垂れ幕の奥では、かすかな音が、ときどき聞える。
頭目が、この夜更《よふ》けに、なにか仕事をしているのであろうか。もう只今《
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