れることでしょう。博士、さあこっちを向いて、わたしの眼を見て下さい。わたしの震える唇を見て下さいましな。この世にわたしが魂と肉体とを献げるべき男性は貴下より外にないのです。さあ、どうかわたしを抱きしめて下さい。わたしに命じて下さい。わたしは貴下のためにどんなことでもしますわ。ミルキ一の美人であるわたしが国民の前でたった一言唇を開けば、国民はわたしの言うとおりになります。わたしの真の敬い、そして愛するのは博士コハクである、皆さんは博士に忠誠を誓いなさいといえば、百万人の国民は立ちどころにそうするにちがいありません。さあ、そうしてもっといい国家を樹てましょう。恋愛だとか性欲だとか嗜好だとか人間の欲望を徹底的に進展する新国家を樹てましょうよ。さあわたしを早く抱きしめて下さい」
ミルキ夫人は爬虫類を思わせるようなしなやかな[#「しなやかな」に傍点]身体をくねらせて椅子から立ち上った。そして博士コハクの膝にその全身を投げかけたのだった。
5
「まあ、貴下はどうかなすっていらっしゃるのじゃない?」
と、ミルキ夫人は博士の膝の上で、愕きの声をあげた。
博士は別になんにもこたえず、相変らずじっと前方を見つめていた。
「だって、貴下のお身体は死人のように冷たいんですもの。わたしの身体はまるで氷の上に載っているように冷えてきましたわ。おお気味が悪い。貴下は本当に生きてらっしゃるのでしょうね」
「フフフフ」と博士が笑った。「生きているようでもあり、また死んでいるようでもありますよ」
「えッ、も一度おっしゃって!」
と、夫人が博士の胸にすがりついたその時だった。入口の扉《ドア》が荒々しくあいて、サロンへドタドタと飛びこんできた者があった。一人はミルキ閣下、一人は針金毛の女大臣アサリ女史だった。
ミルキ夫人は、それと見るより早く、博士の膝から跳ね下りた。ミルキ閣下は、髭の中から大きな両眼をむきだし、鉄丸のような拳を振り上げながら、
「どうも結構な場面を拝見するものだ。法令では大統領夫人と庶民との恋愛的交渉を禁止してあるので、こんな場面なんか永遠に見られないかと思っていたのだ。お前は知ってやったか知らないでやったか分らぬがこのひどい冒涜の場面は先程からテレビジョンで全国へ放送されていたんだぞ。余が識ったばかりではなく、国民全体が識っているわ。そうなれば後はどうなるか、二人とも充分覚悟していることだろうな」
と博士コハクに詰めよった。
博士はそれでも冷然と構えていた。
「テレビ放送で全国に送られていたとすれば、この部屋で私の言った言葉も理解されているはずです。私の潔白はそれで証明されるでしょう」
すると後から女大臣アサリ女史が憎々しげな赭ら顔を出して、
「博士、それはまことにお気の毒ですがネ、テレビ放送にはお二人の所作事が見えただけで、声の方はラジオが停ったきりで高声器はウンともスンとも鳴りませんでしたよ。だから貴下が何を喋ったか、それを知っている国民はただ一人もありませんでしょう」
「えッ、私たちの動作だけを放送して、声を放送しないなんて、そんなばかげたことがあっていいものですか。閣下のお言葉じゃないが、法令によればテレビは必ずラジオとともに放送する規程になっています」
博士コハクは、今までの沈黙を破って、突如雄弁に喋りだした。
「はッはッはッ」と女大臣は無遠慮に笑って、「法令は閣下のお出しになるものです。今日閣下がテレビとラジオとは必ずしも同時に放送するを要せずという改正法令をお出しになったと仮定すれば、博士の抗議は意味ないことになるじゃありませんか。そして謹んで一言申し上げる光栄を有しますが、今日そのように改正法令が出たところなんです。だからテレビだけ送っても違反ではない……」
「それは許せない欺瞞だ。ことさら私たちの関係を誤解させるための悪辣な計略だ。何故《なにゆえ》の中傷です。何故《なにゆえ》の欺瞞です。それを説明して下さい」
博士コハクは直立した身体から火のような言葉を吐いた。
髭の閣下はみるみる蒼ざめた。が、彼はこのときブルブル慄える声で号令した。
「問答は無益だ。女大臣アサリよ、はじめ命じておいたとおり二人を処刑するんだ。それッ」
ミルキ閣下は言い捨てるなり、アサリ女史をしたがえ外へ飛びだすなり扉《ドア》をしめた。
このときまで壁を背にして傍観していた美しきミルキ夫人は、この様子に愕いて自分もともに室外へ飛びだそうとした。しかし扉《ドア》は鉄の壁でもあるかのようにビクとも動かなかった。
「おお、開けて下さい。わたしをどうしようというのです。閣下それではお話が違うではありませんか」
ミルキ夫人は狂人のようになって扉《ドア》をドンドンと叩いた。そして開閉用の釦スイッチを押しつづけたが、閉まった扉は再び
前へ
次へ
全16ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング