って聞くのかい。もちろんさ。なぜそんなことを聞くんだい」
 ポールは無言でペン公の手を握って引き立てた。そして部屋の隅に立っている衝立の蔭に引張りこんだ。
 スルスルと衣服の摺れ合う音がした。衝立の上に、ポールの上衣がパサリとかかった。それからガチャリと皮革が垂れ下った。
 そのとき、中からペンの愕く声が聞えた。ポールの制する声を押し切ってペンは大声で叫んだ。
「――ああこのことだな。お前が自分で身体を解剖しているって噂のあったのは。なんだこれは大変な手術じゃないか。俺は急にお前が厭になった!」

      4

 約束のとおり、ちょうど二十時であった。
 アロアア区の戸口に佇む一個の人影があった。長身のすっきりした男性だった。
 表札には「ミルキ夫人」と記されてあった。
 扉が音もなくスーッと下にさがった。
 中には純白の緞子《どんす》張りの壁が見えた。その中から浮彫りのようにぬけいでた一個の麗人があった。頤から下を、同じく純白の絹でもって身体にピタリと合う服――というよりも手首足首にまで届くコンビネーションのような最新の衣裳を着、その上に幅広の、きわめて薄い柔軟ガラスで作ったピカピカ光る透明なガウンを長く引きずるように着ていた。
「おお博士コハクでいらっしゃるわネ」
 銀の鈴を鳴らすような大統領夫人の声に、かの男はうやうやしくその前にひざまずいた。
「令夫人に忠誠を誓います」
 ミルキ夫人はホホと笑って、博士を奥の一室に導いた。そこは金と赤との格子模様でもって、天井といわず床といわず、眩しきまでに飾りつけのあるサロンだった。部屋の真中にはガラスで作った大テーブルがあって、その上には高級な玻璃の器が所狭くならんでいた。豪華な晩餐の用意ができていたのである。ミルキ夫人は博士を向い合った椅子に招じた。
 ガラスの大テーブルの真中には、やや高い棚のようなものがあった。夫人が釦を押すと、この棚の中では上下に往復運動するエレヴェター式の運搬器《コンヴェアー》が動きだした。テーブルの下から古い酒や結構な料理が静かに上ってきては、主人と博士の前に機械的にはこばれた。用のなくなった皿は自然にテーブルの下におりていって、見えなくなるのだった。夫人が一九三七年製の葡萄酒の盃をあげると、反対運動のように博士も盃をあげた。夫人が蜂の子をつまみあげて口にもってゆくと、博士もこれにならった。そしてその合間々々に、会話がとりかわされた。
「博士。貴下の設計になる音楽浴は、すばらしき効果をあげています。ミルキ閣下においても、殊の外の恐悦です。わたしもまた、敬意を表するにやぶさかではありません」
 博士は黙って首を下げた。
「しかしですネ、博士」と夫人は酒の盃を下に置いて、「音楽浴の勲功も大きいが、その一方において音楽浴が同時に大きな罪悪をも、もたらしているということを気にしないでいられません」
 博士は身体を硬直させたまま口だけを動かして、
「罪悪とは?」
「それは人間性への反逆だからです。第39[#「39」は縦中横]番の国楽は、支配者の勝手きままな統制条件だけでできています。それは人間をあやつるのに最も都合のいいように、あらためることにあって、そういうあらため方を生きた人間に加えてはたして無理がないであろうかという考慮が払われていません。事実、あの音楽浴のお蔭で国民は体躯においても活動力においても品行においても、みちがえるように立派になりました。だが一方において人間性を没却したことは、国民の身体の中にある毒素の欝積をもたらしています。それは日夜積み重なって、今にきっと爆発点に達するでしょう。わたしは国民の一部が、すでにこの毒素の欝積に気づいているものと見ています」
「毒素の欝積があるとしても、毎日十八時の音楽浴がそれを解消しているではありませんか」
「解消したように見えるだけです。一時は本当に解消するのでしょう。しかしそれは完全に解消するのではありません。麻酔はどこまでいっても麻酔です。賢明なる貴下がそれに気がついていないはずはないのです」
「ミルキ夫人よ。私は閣下に忠誠を誓い、そしてご命令によって動いているだけの学者なのでございます」
「お黙りあそばせ。貴下は音楽浴や人造人間を発明する科学者にすぎないと言うのでしょうが、どうしてどうして、貴下は科学者だけなものですか。貴下は科学者であるよりも、数等卓越した政治家なんです。ミルキ閣下などはそばへ寄れないくらいの偉人なんです」
「お言葉が過ぎるようにぞんじます。私は忠誠を誓う一国民にすぎません。ご命令によって忠実に動くことが精々な人間です」
「そんなことがあるものですか。この国をミルキが支配するよりも、貴下が支配するほうがどのくらいいいかしれないのです。貴下が支配者になれば、わたし自身も今の百倍も幸福にな
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