こうして一週間ばかりの日がたった。

   大胆な賭事《かけごと》

「やあ、課長さん」
 きちんとした身なりの長身の紳士が、のっそりと田山課長の机の前に立った。
 課長は何か書類を見ていたが、呼びかけられて顔をあげると、見る見る顔が朱盆《しゅぼん》のようにまっ赤になった。
「こんなところへ君が入ってきては困るね。おい本郷《ほんごう》、松倉《まつくら》、いったい何のために戸口をかためているのか」
 課長は部下を叱《しか》りつけた。
「いや、僕は総監室からこっちへきたものですからね、貴官の部下には失策はないのですよ」
「総監だって誰だって、君をのこのこ、この部屋へ入らせることはできない。さあ、あっちの応接室へきたまえ」
 雲行《くもゆき》は、はじめっから険悪だったが、応接室へ入ると同時にいっそう険悪さを加えた。
「なぜ君は、早く出頭しなかったのかね。その間に都下の新聞はこぞって、あのとおり幽霊の説、幽霊の研究、幽霊の事件の欄までできて騒いでいる。それにあおられて都民たちがすっかり幽霊病患者になっちまった。それについての都民からの投書が毎日机の上に山をなしている。みんな君のおかげだよ。なぜもっと早く出頭しない」
 課長はかんかんになって探偵蜂矢十六を睨《にら》みすえた。
「あいにく東京にいなかったもんで、失礼しました」
 蜂矢は煙草に火をつけて、こわれた椅子の一つにやんわりと腰を下ろした。
「連絡はすぐとるようにと、注意をしおいたのに、なぜ君の族行先へ連絡しなかったのか」
「留守の者には、僕の行先を知らせておかなかったものですからね。もっとも短波放送で貴官が僕に御用のあることは了解したのですが、何分にも遠いところにいたものですから、ちょっくらかんたんに帰ってこられなくて」
「どこに居たのかね、君は」
「ロンドンですよ」
「なに、ロンドン? イギリスのロンドンのことかね」
「そうです」
「何用あって……」
「幽霊の研究のために……」
「よさんか。わしを馬鹿にする気か」
「そうお思いになれば仕方がありませんから、そういうことにして置きましょう。しかしですな、御参考のために申上げますと、幽霊の研究はイギリスが本場なんです。殊《こと》にケンブリッジ大学のオリバー・ロッジ研究室が大したものですね。それからこれは法人ですがコーナン・ドイル財団の心霊研究所もなかなかやっていますがね」
「もうたくさんだ。君のかんちがいで見当ちがいを調べるのは勝手だが、わしの担任している木見、川北事件は幽霊なんかに関係はありゃしない。純粋の刑事事件だ」
「それは失礼ながら違うですぞ。もっとも幽霊がでる刑事事件もないではないでしょうが」
「わしは断言する。この事件に幽霊なんてものは関係なしだ。幽霊をかつぎだすのは世間をさわがせて、何かをたくらんでいる者の仕業だ。わしは確証をつかんでいる」
「困りましたね。僕の考えは課長さんのお考えと正反対です。この事件において、幽霊の真相を解かないかぎり、事件は解決しません」
「君はずいぶん強情だね。ここのところはたしかなのかい」
 課長は指をだして、蜂矢の頭をついた。蜂矢は怒りもしないで笑っている。
「ねえ、課長さん。貴官はまだ幽霊をごらんになったことがないからそうおっしゃるのでしょう。だから一度ごらんになったら、そんな風にはおっしゃらないでしょう」
「とんだことをいう、君は……」
「いや、ほんとうですよ。では貴官に幽霊を見せる機会をつくりやしょう」
「なんて馬鹿げたことを君はいうのか」
「よろしい。そのことは引受けやした。多分成功するでしょう。しかしかなり忍耐もしていただきたくそれに僕のいう条件をまもっていただかねばなりません。そして幽霊は、さしあたりこの警視庁の中へだすことにしましょう。それも貴官の課の部屋へでてもらいましょう」
「君は冗談をいってるんだ。もう帰ってもらおう」
「いや、僕はまちがいなく本気です」
「阿呆は、きっとそういうものだ、自分は阿呆じゃないとね」
 あまり蜂矢がまじめくさって幽霊の話をし、しかも所もあろうに捜査課の中へ幽霊をだそうと確信あり気にいうので課長はあまりのばかばかしさに、さきほどの怒りも消えてしまい、蜂矢をもてあまし気味となった。蜂矢はそんなことにはかまわずしばらく考えていた末に、こういった。
「魚を釣るにはえさが要るように、幽霊をつりだすにも、やはりえさが必要なのです。僕は今日の午後そのえさを持ってきて貴官の机の上に置きます。但しこのえさは絶対に貴官たちの手によって没収しないようにねがいます。たとえそれがどんなに貴官たちをほしがらせても。約束して下さいますか」
「約束はいくらでもするがね、だが……」
「幽霊のでる時刻は夕方になってあたりが薄暗くなりかけてから始まり翌日の夜明けまでの間です。
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