い。先生が、先生が……」
川北先生はうわごとをつづけた。
「これは駄目じゃね。ねえ黒川君」
「重態ですな。注射と滋養|浣腸《かんちょう》をやってみましょう。明日の朝までに勝負がつくでしょうな」
「どっちだい、君の見込みは……」
課長の問に対して黒川医師は口でこたえず、首を左右へふってみせた。
「どうです。課長さん。その道夫君というのをすぐここへ呼んでやったらどうでしょうかね」
「なに、道夫を呼ぶ」
課長は気色のわるそうな顔をしたが、眼を転じて部下の一人へ眼配《めくば》せした。
一週間
川北先生の生死が賭《か》けられたその翌朝となった。
先生はやっぱり苦しそうな呼吸をつづけていた。だが先生の心臓はとまらなかった。
「黒川君。あの川北は危機をとおりぬけたのかね」
前夜から、川北先生と共に農業会で一夜を送った田山課長が黒川警察医にたずねた。
「これならすぐ死ぬようなことはありますまい」
と、警察医は川北先生の脈をとりつづけながらこたえた。
「正気に戻るのはいつのことかね」
「さあ、それは全く不明です。もっと経過をみませんことには何ともいえませんな」
「ふうん」課長は不満の色を見せた。「とにかくこの男を絶対に死なせないように手当をしてくれ。ここじゃ困るから、すぐ東京へ移せないものかね」
「二三日様子を見てからにしましょう。すぐ動かすのは危険です」
「二三日後だね。よろしい。適当に宿直員をふやして懸命に保護を加えてくれたまえ。そしてもし変ったことがあったら、すぐわしのところへ報告するように」
「は、わかりました。で、課長は今日はお引きあげですか」
「うん、こんなところにいつまでも居るわけにいかん。それに、昨日ここへ呼んだ少年の話も興味があるから、この事件は従来の方針を改めて徹底的にしらべることにする。幽霊事件なんてものが、今どきこの東京にひろがっては困るからね。あの川北が発見されたのがきっかけとなって、昨日の夕刊今朝の朝刊、新聞社は大々的文字でこの事件を書きたてているじゃないか。幽霊が今どきこの世の中を大手をふって歩きまわるなんてことを本気になって都民が信ずるようになっては困るからなあ」
「それはそうですな。そういえば幽霊の存在を信ぜざる者は、この怪事件を解く資格なしなどという社説をだしている新聞もありましたね」
「けしからん記事だ。あの社説内容のでどころは、わしにはちゃんと分っている。誰があんな社説を流布《るふ》したか、わしは知っている」
「あははは。あの蜂矢探偵のことですか」
課長はそれにはこたえず不快な色を見せただけで黙っていた。
「実際蜂矢氏はすこしでしゃばりすぎますね。しかし仲々頭のいい人で、私立探偵にしておくのはもったいないほどだ。うちの課にもせめてあれくらいの人物が二三人……」
課長が吸いかけた煙草を灰皿の中にぎゅっと押しつけたので、黒川医は課長がかんしゃくを起したかとおどろいて言葉をとめた。
「幽霊を信ぜよなどという悪説を流布する者は、いくら頭がよくても、うちの課員にすることはできない」
課長はこの言葉を後に残して、部下たちをひきつれて本庁へ帰っていった。
幽霊説を蛇蝎《だかつ》のように嫌う一本気の田山課長が爆発させたかんしゃく玉はそれからこの事件の捜査を、以前とはうってかわった真剣なものにした。
木見邸にはいつも数人の警官が詰めることとなった。
その隣家の道夫の家まで、厳重に見張られることとなった。
道夫といえば、この少年は川北先生の発見以来ずっと川北先生のそばについている。それは同時にその筋から監視と保護とを加えられて居り、道夫の自由行動は許されない状態にあった。
道夫の両親、ことに、その母親はいつまでも道夫が戻されないので、非常な不安な気持になり、この頃ではよく寝こむ始末であった。
それからもう一つ書いておかねばならぬことは、多摩川べりが連日にわたって厳重に捜索せられたことである。これは道夫ののべた話により、奇怪なる老浮浪者の行方を探しもとめることと、その川べりにあるはずの大きなおとし穴や、その老浮浪者の住んでいる場所をつきとめることにあった。
だがこの方は成功しなかった。あれ以来老浮浪者の姿はこの界隈《かいわい》には全く見あたらなくなった。また、大きな落し穴も見つからなかった。怪老人の住んでいたと思われる地点は分ったが、しかしそこには茶碗のかけら一つ発見されず、ただ事がすこしすり切れて、赤い地はだがでている箇所や、竹か棒をたててあったらしい跡が見つかっただけであった。
雪子学士の幽霊も、その後さっぱり現われないという報告であった。
川北先生の容態も、あいかわらず意識不明のままで、今は帝都の中心にある官立の某病院の生ける屍《しかばね》同様のからだを横たえつづけている。
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